旧日本海軍の軽巡洋艦「矢矧」が1942年の今日、進水しました。高速かつ航続距離も長いうえ、レイテ沖海戦後には対空火力も強化されました。最期となる出撃では、運命を戦艦「大和」とともにしています。

求められた「万能艦」

 1942(昭和17)年の9月25日は、旧日本海軍の軽巡洋艦「矢矧」が進水した日です。「矢矧」は最期となった戦いに、世界最大の戦艦「大和」とともに挑んだことでも知られます。

「矢矧」は阿賀野型軽巡洋艦の3番艦として、佐世保海軍工廠で起工。約10か月後に進水し、さらに1年あまり後の1943(昭和18)年12月29日に竣工しました。基準排水量6600トンあまり、速力35ノット(約63km/h)の艦にして、15cm連装主砲3基、4連装魚雷発射管2基、8cm連装高角砲2基、水上偵察機2機を搭載。特に主砲は仰角を向上させ、対空兼用とされました。「矢矧」には、駆逐艦隊の旗艦として陣頭に立ち、その指揮をとる能力が求められていたのです。

 竣工翌年の1944(昭和19)年、「矢矧」は主に空母部隊の護衛として南方へ赴きます。

 初陣は6月のマリアナ沖海戦でした。すでに戦局は悪化しており、ともに作戦に参加した空母などが撃沈されていきます。襲来するアメリカ軍機との対空戦闘のほか、従える駆逐艦とともに沈没艦の乗組員救助などに従事しました。

戦艦「大和」とともに沖縄へ…

 続いて1944年10月、「矢矧」はフィリピンのレイテ島を巡って勃発した、史上最大の海戦ともいわれるレイテ沖海戦に参加。戦艦「金剛」を旗艦とする第二部隊に属しました。しかし戦局は圧倒的にアメリカ軍有利であり、大和型戦艦の「武蔵」ほか、「瑞鶴」など4隻の航空母艦が撃沈。旧日本軍は事実上、艦隊戦力を喪失するという大敗を喫しました。

「矢矧」も一連の海戦で幾度となくアメリカ軍と交戦。沈没こそ免れたものの命中弾を受け、損傷箇所多数で故郷の佐世保に帰投しました。この時「矢矧」は修理されるとともに、レーダーの追加設置や機銃の増設など、対空火力を強化します。

 いよいよ敗色が濃くなった1945(昭和20)年3月、「矢矧」は水上特攻を下令されます。沖縄に上陸したアメリカ軍に対し、座礁させ砲台化した艦から砲撃を加えるという作戦でした。これには「大和」も含まれていました。

「矢矧」「大和」以下、駆逐艦8隻から成る艦隊は4月5日、沖縄へ向けて出撃。しかし翌日にはアメリカ軍の潜水艦によって動向が察知され、攻撃を受けるのは時間の問題となりました。ただ、この日は交戦することなくそのまま翌7日を迎えます。

 正午過ぎ、沖縄近海のアメリカ軍空母が発進させた艦載機の大編隊が襲来、艦隊は猛攻にさらされます。「矢矧」には魚雷1本が命中し、早くも航行不能に陥ってしまいました。

 駆逐艦も次々に撃沈されていきます。空襲回避ができず、また「大和」の次に大きい「矢矧」は格好の標的となり、集中攻撃を受けます。魚雷と爆弾が計10発以上、立て続けに命中すると、「矢矧」はついに転覆、14時頃に沈没しました。

 やや前方にいた「大和」も14時半前に沈没。2隻とも沖縄への途上、坊ノ岬沖約200kmの東シナ海に没しました。ただし「矢矧」は軽巡クラスでありながら、攻撃一辺倒の戦闘におよそ2時間耐えたのでした。