軍事輸送で鉄道は明治時代から重視されていました。日中戦争期に中国大陸でこの役目を担ったのは、現在一般的にはあまりその名を知られていない「華北交通」と「華中鉄道」という二つの国策鉄道会社でした。

日中戦争下で生まれた「満鉄」以外の国策鉄道会社

 戦前・戦中に日本は中国大陸に鉄道を展開しました。その担い手としては、日露戦争後、ロシアから譲渡された路線を使用した事業のために、1906(明治39)年に設立された「南満州鉄道(満鉄)」が有名ですが、その後、1937(昭和12)年に始まる日中戦争の時期に存在した二つの鉄道会社「華北交通」「華中鉄道」は一般にはあまり知られていません。本稿では、日中戦争の進展とともに生まれ、そして消え去ったこの二つの鉄道会社の実態に迫ってみます。

「華北交通」と「華中鉄道」はともに、日中戦争下、中国大陸の物資を収奪し、前線に軍隊を送るため、国策鉄道会社として日本政府の手によって生み出されたものです。まずは、日本陸軍の進攻と一体となったその設立経緯を見ていきましょう。

 満鉄が、軍事協力の名のもとに華北(中国北部)へ進出したのは、盧溝橋で日中両軍が衝突する事件(盧溝橋事件)が起きた翌々日の1937(昭和12)年7月9日のことでした。満鉄は奉天鉄道事務所で山海関輸送班を編成し、12日にはさらに一部が天津へ進出します。

 このとき陸軍は、北支那方面軍のもとに第二野戦鉄道司令部を編成していましたが(6月17日)、満鉄は第二野戦鉄道司令部の指示のもと、軍の鉄道部隊の行動範囲にまで鉄道管理に携わりました。

 日中戦争が本格化した1937年末の段階で、満鉄の華北派遣人員は7861名。また同年10月の時点で、満鉄、朝鮮鉄道、国鉄から借り上げた車両は4800両、翌年には日本本土から国際標準軌に改軌した蒸気機関車(9600形)100両と貨車1200両が送られており、いかに巨大な事業であったかがうかがわれます。

 そして、これらの人と物、および技術が、新たに設立される華北交通の母体となりました。

ほぼ満鉄の姉妹会社 しかし経営は分離された華北交通

 1938(昭和13)年11月に発足した国策会社「北支那開発」の下、港湾・鉄道・道路といった運輸交通を統べる会社が1939(昭和14)年4月11日に誕生しました。この会社は陸軍大臣が北支那開発を通じて命令と監督ができるとされました。これが華北交通です。

 さらに華北交通は、蒙彊連合政府(後の蒙古連合自治政府)の域内にあった鉄道の経営も委ねられました。

 華北交通は、満鉄から車両・人員・設備・鉄道運営のノウハウを継承しましたが、満鉄は経営から排除されていました。おそらく、鉄道を中心とした総合国策会社である満鉄の力を少しでもそぎたいという政治的な目論見と、想定される対ソ戦の集中幹線に満鉄は必須のものであるという軍部の力が働いたのでしょう。技術は満鉄、資金は北支那開発というのが華北交通の成り立ちでした。

“日本の国鉄寄り”だった華中鉄道

 この時期に設立されたもう一つの鉄道会社「華中鉄道」も、華北交通と似たような経緯で発足した会社でした。この会社の路線は、「南船北馬」といわれ、河川やクリークが多い華南(中国南部)における水運を完全に掌握できない日本軍が、主に軍需物資を運ぶのに使用しました。

 まず1938(昭和13)年3月に「中支那振興設立要綱」が閣議決定され、国策会社として「中支那振興」が設立されます。その下に1939(昭和14)年4月30日に設立された会社が華中鉄道でした。ちなみに華北交通の技術・人員が満鉄に影響されていたのとは異なり、こちらは日本の国鉄(鉄道省)の技術的影響力が強かったといわれています。

 この二つの鉄道は、日本陸軍の華北進攻の前線にまで展開した満鉄にくらべ、占領地、とくに後方地域で活動していました。さすがに前線地域は軍の鉄道部隊が掌握していたからです。

 それでも鉱山がある都市から港湾がある都市や、中国大陸を南北に縦断する路線は重視され、とくに華北交通の津浦線(天津〜浦口〈徐州〜浦口は華中鉄道〉)と華中鉄道の海南線(上海〜南京)の復旧は急がれました。

シンガポール行き直通列車の大構想

 日本政府は、1941(昭和16)年2月14日の閣議において、日本国内の鉄道、朝鮮鉄道・満鉄、そして華北交通と華中鉄道を一体的に運用しようと決定しました。この構想はさらに進み、1942(昭和17)年8月21日(つまり日本が太平洋戦争で破竹の進撃をしている時期)には大東亜建設会議審議会から、中国大陸を縦貫し、さらに日本占領下にあるフランス領インドシナ、同盟国のタイ、さらに占領下のマレー半島を縦断し、直通列車を走らせる構想にまで膨らみました。

 この実現のためには、中国での占領地を新たに広げ、さらに桂林からフランス領インドシナのランソンまで鉄道を敷設し(桂林〜ランソン間は戦後の1955年に全通)、さらにフランス領インドシナとマレー半島の鉄道を国際標準軌に改軌する必要がありました(なお、当時の日本国内でも国際標準軌による弾丸列車計画の構想は進められており、これは戦後の新幹線につながります)。

 つまり、当時の日本にとってこれはとうてい無理な大計画だったといえるでしょう。ところが、この構想は再び軍によって甦るのです。

 1943(昭和18)年になると、不足し始めた船舶と増大する貨物に対応するため、陸路での貨物輸送に転換することが必要になってきます。

 このため、同年5月には関東軍・満鉄・朝鮮鉄道・華北交通・華中鉄道および関係する各機関で構成された「大陸鉄道輸送協議会」が発足し、華北の塩・綿花・石炭・礬土頁岩(ばんどけつがん)、満洲の穀類・石炭・鉄および朝鮮の米と黒鉛を、年合計600万〜700万トン、朝鮮経由で日本に送る計画が生まれました。

 同年の9月以降には、在中国の米軍機が中国沿岸航路を航行する船を攻撃するようになっていました。その喪失総トン数は18年10月から19年3月までの間に19万9315総トン、隻数にして73隻に上ります。

 この貨物の陸上輸送への転換と沿岸部の航空機被害、さらには将来予想されるさらなる船舶不足――これらの要因により日本陸軍は、中国大陸を縦断する「大陸打通」作戦の実行を決断します。

夢と消えた大陸縦貫鉄道と“その後”

 日本陸軍最大の攻勢作戦となった大陸打通作戦の目的は三つありました。一つは所在の中国軍を撃破して蒋介石の重慶政府に打撃を与えること、二つ目が、鉄道を縦貫させること、三つめが沿岸部の航空基地を撃滅することでした。

 結局、大陸打通作戦は、敵空軍基地の覆滅を主目標にしたものとなりましたが、日本陸軍が、大陸縦貫鉄道の夢をあきらめていなかったのは確かです。実際、日本軍は満洲や占領地から不要不急の鉄道材料を運ぶ算段をしていました。しかし岳州以南の鉄道は中国軍に破壊され、さらに先述したように桂林以南の鉄道は建設されておらず、実行は困難でした。やはり、大陸縦貫鉄道は夢と終わったのでした。

戦争末期も懸命に走り続けた華北交通と華中鉄道

 1944(昭和19)年12月、日本陸軍の大陸鉄道隊が編成され、この部隊が「満鮮支」の軍事輸送をすべて管掌するようになりました。さらに1945(昭和20)年3月になると占領下の鉄道は全て軍の管理下に置かれるようになります。

 この時期には、線路への抗日ゲリラの襲撃と在中米空軍の空襲が常態化していました。そうしたなか華北交通も華中鉄道も懸命に輸送を行いました。しかし、一貫輸送により長距離を走ることから貨車の運行効率は悪く、朝鮮南部には車両の集中により貨車ラッシュが発生していました。さらに、釜山港での船積みの際には荷役効率が悪化して、貨物の滞留が膨大なものになっていきました。

 1945(昭和20)年4月1日、華北交通は民間会社から軍の一機関である「北支那交通団」へと改組。職員はすべて軍属となりました。そして敗戦後、中国国民政府に接収され1946(昭和21)年には閉鎖されます。同じく華中鉄道も敗戦後に接収・閉鎖されました。

 中国大陸での陸上貨物輸送のあまりに巨大な規模と複雑さは、日本政府、そして日本陸軍の当初の想定を超えるものだったのかもしれません。中国において日本が構想した鉄道輸送網は、敗戦を待たずして、もろくも崩れ去ったのです。

※華北交通が所蔵していた約3万8000点の広報用ストックフォトなどは、統合型の研究データベース「華北交通アーカイブス」にまとめられています。