イギリスから日本へ里帰りした旧日本陸軍の九五式軽戦車が、イベントで快調にエンジンを唸らせて走りました。その車体をよく見ると、旧日本軍が独自に作り出した「秘密のスイッチ」がありました。

実は2回目の里帰りとなった旧軍戦車

 2022年12月、旧日本陸軍の九五式軽戦車がイギリスから日本へ到着して話題になりました。これは静岡県御殿場市のNPO法人「防衛技術博物館を創る会」(代表理事:小林雅彦氏)がクラウドファンディングで日本へと“里帰り”させたものです。

 2023年4月に御殿場市で行われたお披露目イベントでは、快調にエンジンを鳴らして走り回りました。よく見るとその車体には、知る人ぞ知る「秘密のスイッチ」が見事なレストアで再現されていました。

 ここで少し九五式軽戦車について解説しましょう。本車は戦前、旧日本陸軍が、機械化を進める騎兵科と戦車部隊を持つ歩兵科、双方の要望に応える形で1935(昭和10)年に開発した3人乗りの軽戦車です。

 軽量化するために装甲が薄くされていたことから、防御力はやや不充分であったものの、試作車の最高速度は43km/hを記録するほどで、当時としては快速性に優れた戦車でした。また、搭載する120馬力ディーゼルエンジンは機械的な信頼性が高く、加えて武装も九四式37mm戦車砲および2挺の九七式7.7mm車載重機関銃と軽戦車としては比較的強力であったことから、開発された当時としてはバランスの取れた仕上がりで、各国の類似戦車に決して引けを取らない性能だったといえます。

 ちなみに、九五式軽戦車は「ハ号」と呼ばれることもありますが、その理由は、八九式軽戦車(後に中戦車へと区分変更)の「イ号」、九五式重戦車の「ロ号」に続く旧陸軍の制式戦車だったからです。なお、生産数は2125両を上回り、日本戦車としては現在も最高記録となっています。

 今回の“里帰り九五式軽戦車”は、太平洋戦争後しばらく経ってからミクロネシア連邦ポンペイ島(旧称ポナペ島)で発見された2両のうちの1両です。旧日本陸軍の所属であった三菱重工製「4335」号車は、一時は日本に帰国して京都の嵐山美術館(当時)などで展示されていましたが、施設の閉鎖後にイギリス人コレクターへと売却され、再び海を渡って異国の地へと行ってしまいました。

「秘密のスイッチ」その使い方は?

 イギリスに渡った九五式軽戦車「4335」号車ですが、2017年ごろから冒頭のNPO法人「防衛技術博物館を創る会」が中心となり、同戦車を国産機械産業の重要な歴史遺産として位置づけ、その里帰りを求める活動が始まります。

 そして、2度にわたるクラウドファンディングにより多くの寄付金と支援者を得たことで、ポーランドでのレストア作業を終えた九五式軽戦車をイギリス人コレクターから買い戻すことに成功。2023年4月16日に御殿場市で行われたお披露目会では、集まった支援者とNPO法人の賛助会員約600名に対して、その勇姿を見せたのでした。

 こうして里帰りを果たした九五式軽戦車ですが、筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)が注目したのは、車体後部に設けられた、ある知られざる装備です。それは車体後部のエンジンルーム後面左、ナンバープレートの右側に設置されたボタン状のもの。一見、車体の随所に打たれたリベットのひとつにも見えますが、よく観察すると他のものとは大きさや形状が微妙に異なり、周囲には少しすき間も空いています。

 実は、これはリベットに擬装した一種のスイッチなのです。

 このスイッチを押すと、車内右側の操縦席左にある警報器のブザーが鳴る仕組みになっています。何のためかというと、これを使えば外にいる兵士が車内へ警報を発したり、ハッチを閉めた状態から車長を呼び出したりすることが可能でした。またこれは推測ですが、連続してブザーを鳴らすことで短いモールス信号で文章を伝えるといった使い方もしていたかもしれません。

 ただし、教育訓練や演習などで日ごろから戦車と行動を共にしていた機動歩兵(自動車化部隊)は、この連絡装置を理解して戦場で活用していたものの、戦車などとあまり連携したことのない一般の歩兵などはその仕組みを知らず、結局は車上によじのぼりハッチを開けて車内に怒鳴る兵士もいたと聞いています。

 とはいえ、こうした装備は同時期の他国戦車にはあまり見られないため、九五式軽戦車の特徴でもあります。それらも含めて現存する「4335」号車は、当時の日本の機械産業レベルや兵器としての運用方針を示す「生きた見本」といえるでしょう。

現用アメリカ戦車にも見られる近似装備

 ただ、このような戦車の車外から車内への連絡装置は日本人の発明というわけでもありません。元々は、第1次世界大戦で用いられた世界初の戦車、イギリスのMk.I菱形戦車で、すでに装備されていたものです。

 しかし当時の装置は、長さ100m以上の電話線を後ろに向けて伸ばす、たとえるなら「戦車に載せた電話」といえる代物で、実質的には無線機の代わりでした。しかも、戦場でケーブルはしばしば切れてしまい役に立たなかったことから、その後はほとんど使用されなかったとか。

 それでも第2次世界大戦になると現場での必要に迫られて、戦車の外部に取り付けた電話器で歩兵が車内と通話する装置が開発されます。

 これは「グラント電話」または「戦車電話」「歩兵電話」と呼ばれ、太平洋戦争中盤の1943年、南太平洋のブーゲンビル諸島に展開したアメリカ軍のM4中戦車では、車体後部に取り付けた弾薬缶に収納した野戦電話を使って車内インターホン越しでの会話ができるまでになっています。またボルネオ島東岸(現インドネシア)に浮かぶタラカン島へ展開したオーストラリア軍の「マチルダII」戦車にも戦車電話が搭載され、次第に米英戦車の標準装備となりました。

 この流れは戦後のアメリカ戦車やイギリス戦車にも引き継がれ、21世紀現在もアメリカのM1「エイブラムス」戦車の後部右側には、車外の兵士が車内の乗員と通話可能な戦車電話のボックスが設置されているのが確認できます。

 一見すると似ても似つかない、M1「エイブラムス」戦車の戦車電話と、九五式軽戦車のブザースイッチですが、こうして見てみると、用途としては非常に近似するものだといえるのではないでしょうか。

 こうした「発見」ができるのも、九五式軽戦車がほぼ完全に再生され、日本に戻ってきたからです。貴重な国産機械産業の歴史遺産として、「4335」号車が末永く大切に保存されることを切に願います。