現在の鉄道網は国が正式決定した整備計画に基づいて整備されましたが、計画段階でボツになった「構想線」が存在します。どんなルートがあったのでしょうか。

時代のあだ花に散った首都圏の「構想線」

 鉄道趣味のジャンルには、既に廃止されてしまった鉄道の痕跡に興味を示す「廃線」、計画や工事が途中で中止され開業しなかった「未成線」などがありますが、さらにその前の段階、議論の俎上にのぼる前の「構想線」に興味を寄せる人は多くありません。

 というのも、鉄道事業者は計画を公表する前に内部で様々な案を検討しており、表に出る前に消えていった計画、構想は無数に存在する上、一般人がそれを知るすべはほとんどないからです。

 さて、1976年4月に発行された交通協力会の機関誌『交通技術』の記事で、国鉄鉄道技術研究所停車場研究室の主任研究員、宮田一氏による壮大すぎる路線構想が披露されています。記事タイトルは「首都圏における鉄道網の考え方」。

 宮田氏は冒頭に「部分的にはかなり具体的に述べているが、これは筆者の私見にとどまる」と釘を刺していますが、記事には当時、国鉄内部で検討されていた路線も含まれており、公式な検討過程を一定程度、反映していると見てよいでしょう。

構想の背景には「20年で1000万人以上」という首都圏の急激な人口増加があります。当時、「集団就職」などにより地方から人口が一斉に流入し、首都圏(東京、神奈川、埼玉、千葉)の人口は、1950(昭和25)年の1305万人から、1960(昭和35)年には1786万人、1970(昭和45)年には2411万人と急増していました。

 その結果、東京近辺の通勤路線は「混雑率300%」に達するほど混み合い、鉄道各社は列車の増発、車両の増結を急ぎましたが、これは小手先の対応に過ぎず、増え続ける旅客需要を考慮すれば早晩行き詰まるのは明らかでした。

「限界満員電車」対策に国が取った「対策」

 もともと国鉄は、幹線を中心とした「全国鉄道ネットワーク」の整備を使命と考えており、首都圏の通勤輸送対策は「一地方」のこととして「火の粉をはらう程度(磯崎叡国鉄総裁)」の消極的なものでした。

 しかし1960年後半になるとそうもいかなくなり、主要通勤路線の複々線化(五方面作戦)、既存路線間の新線建設と沿線開発、さらにその先には通勤用の短距離新幹線を建設する構想を打ち出します。『交通技術』で記されているのは、そのような背景のもとに検討された構想です。

 新線には「需要追随型」と「沿線開発型」という2つの性格があり、前者は更に複々線化など既存路線の輸送力増強と、放射路線間を結ぶ環状線など潜在需要に対応する路線に分けられます。また後者は私鉄の郊外路線のように、鉄道建設をテコに沿線開発を進め、人口を吸収するための路線です。

 これをふまえて国鉄は今後の鉄道計画を次のように考えました。

・沿線開発型の放射高速鉄道を都市圏外周部まで計画する
・山手線〜武蔵野線の地帯に潜在需要対応型の環状鉄道を計画する
・武蔵野線の外側については、在来路線を利用して「通過需要利用型」環状鉄道の強化とともに「地域開発計画に対応した」環状鉄道を計画する

 そのうえで筆者の宮田氏は、当時の都市交通審議会で認められた路線の範囲外で、今後、整備が望ましいルートとして次のような路線を挙げています。

これが1976年の「首都圏近未来鉄道計画」だ!

【放射高速鉄道】
(1)東京湾岸線(都心〜海浜ニュータウン〜千葉方面)
 →のちの京葉線。
(2)常磐新線(田端付近〜野田付近〜筑波学園都市〜水戸方面)
 →のちのつくばエクスプレス。
(3)大宮バイパス東北新線(新宿〜王子〜岩槻付近〜白岡方面)
 →一部区間が埼玉高速鉄道に発展。
(4)比企・八高連絡線(池袋付近〜朝霞〜比企ニュータウン〜松久方面)
(5)高麗川・八高連絡線(新宿〜所沢北方〜高麗川〜八高線小川町方面)
(6)中央・相模連絡線(三鷹付近〜多摩ニュータウン〜上溝付近)
(7)港北ニュータウン・平塚新線(目黒付近〜港北ニュータウン〜二俣川〜平塚)
 →のちの神奈川東部方面線(相鉄・東急新横浜線)。
(9)東京湾横断鉄道(新宿〜大井ふ頭〜羽田空港付近〜木更津)

【環状鉄道】
(A)環6ルート
(B)環7・環8ルート
(C)第2武蔵野ルート(一部は新金・小名木川貨物線などを利用)
(D)西関東縦貫線(原町田〜多摩ニュータウン〜立川〜坂戸町〜比企ニュータウン〜熊谷)
(E)関東平野横断線(越生〜比企ニュータウン〜桶川・白岡・杉戸付近〜下館)
(F)関東平野縦貫線(鹿島港〜筑波学園都市〜古河付近〜館林〜太田〜伊勢崎付近〜高崎操車場)

(1)〜(3)は既に国鉄が構想を発表していた「開発線」に相当します。いずれも「既存路線の間の空白地域」に放射路線を通し、利用を分散しようというのが狙いです。後に(1)は京葉線、(2)はつくばエクスプレス、(3)は埼玉高速鉄道の一部として、形を変えながらも実現しました。

「泡沫候補」がやたらと東松山に行きたがるのは…

(6)の「中央・相模連絡線」は西武多摩川線を転用して、多摩ニュータウン経由で相模線に接続し、相模線を都心の通勤路線とする構想です。西武線の多摩NT乗り入れは中央線の混雑を激化させるとして認められなかった経緯がありましたが、中央線の輸送力増強と連携して実現しようという構想です。

 もうひとつの軸が、山手線と武蔵野線の間に配置された3つの環状線です。(A)は1972(昭和47)年の都市交通審議会答申第15号で示された「主として環状6号道路を経由して、板橋附近より五反田、品川に至る路線」、(B)は現在のメトロセブン・エイトライナーに繋がる構想です。

 開発型の路線としては、(4)(D)(E)の3路線が比企ニュータウンを経由していることに注目です。これは埼玉県東松山を中心に人口50万人のニュータウンを建設する構想に対応したものでしたが、肝心の新線整備が動かず、実現しませんでした。 (4)の「比企・八高連絡線」に至っては東武東上線と完全な競合関係にあり、どういう位置づけだったのか、色々気になるところです。

 これら壮大な構想の多くはオイルショック後の経済・社会情勢の変化を受けて、具体化しないまま歴史の中に消えていきました。しかし前述のように形を変えて前進・実現した路線もあるのが「構想線」の面白さです。

※誤字を修正しました(5月24日17時00分)。