織田信長の権威の象徴だった安土城(近江八幡市提供)

天下統一を目指した織田信長の権威の象徴といえば、近江(現在の滋賀県近江八幡市)に建てられた安土城。その築城の総責任者だったのが織田四天王の一人、丹羽長秀だ。前代未聞の巨大な城を長秀はどのように築き上げ、信長の絶大な信頼を得たのか。その謎を追うと、安土城の“原型”とも呼べるもう一つの城にたどり着いた。

安土城は革命的な「総石垣造り」

山全体を城郭として石垣を積み上げた安土城(近江八幡市提供)

安土城が天主(天守)と並んで革命的だったとされるのは、「石垣」の造りだ。それまで日本の城の主流は「土の城」だったが、安土城は山全体を城郭として石垣を積み上げた「総石垣造り」だった。天守台の石垣は高さ9メ―トル、大手道は幅6メートル、長さ180メートルにも及び、中には14メートルもの高石垣もあった。

この石垣造りに携わったのは近江にいた石工、つまり石積み職人たちだ。なかでも15代続く「穴太衆(あのうしゅう)」は、自然石を高く積み上げる「野面積み(のづらづみ)」の技術を持っていた。長秀はその存在を延暦寺焼き討ちの際に知り、安土城築城にあたって召し抱えたとされる。

「石の城」と判明した小牧山城

安土城のモデルとされる小牧山城

しかし、いくら優秀な職人がいたとはいえ、いきなりここまで完成度の高い城を造れるものなのか。実は、安土城には“モデル”が存在したといわれている。安土城築城の13年前、信長が建てた人生初の城である小牧山城(こまきやまじょう)だ。

現在の愛知県小牧市にある小牧山城では、以前から発掘調査がされてきたが当初は中世の「土の城」だと思われてきた。しかし平成16(2004)年に発掘調査をした際、土の斜面の中から石垣が出土。さらに平成22(2010)年には、石材の墨文字が信長の家臣「佐久間」と判読され、小牧山城が本格的な「石の城」だったことが発覚した。

信長は「魅せる城」にしたかった

小牧山城の発掘調査に携わった小野友記子さん

小牧山城の築城にも長秀が大きな役割を果たしたとされているが、信長はなぜ「土から石」の城に変えたのだろうか?

「信長はお城を『戦う装置』から『魅せる装置』に変え、大きな発想の転換や価値観の転換を図った」と分析するのは、小牧山城の発掘調査に携わった日本城郭協会の小野友記子さんだ。

小野さんは小牧山城の特徴として、正門(大手門)から本丸をつなぐ道、つまり「大手道」が他の城に比べてまっすぐに伸びていることを挙げる。これは安土城の大手道も同様だ。

実際より高く積まれたかのように見せる三段の石垣(小牧市教育委員会提供)

また、山頂付近の石垣には巨大な石が使われている。特に、北西側に向いた面には極めて大きな石がある。これは、信長が小牧山城に居城を移したときに一番緊張関係にあった美濃の岐阜城(稲葉山城)の方を向いており、巨大な石を運んで積み上げること自体に、敵を威嚇する効果があったとされる。また、石垣は三段になっていて、下から見ると実際よりも高く積まれたかのように見える。これも敵を驚かせる視覚のトリック、「魅せる城」の演出だという。

最先端の石垣を造った腕利き職人は誰か

石積みで造られていた熱田の湊(熱田区歴史資料室所蔵)

内部構造には、後の城造りに欠かせない裏込石(うらごめいし)の技術が既に用いられていた。小牧山城の石垣は、当時の最先端技術で造られていたのだ。

しかし、長秀は一度も造ったことのない本格的な石垣をどう完成させたのか。調べると3つの説が浮上した。

小野さんが提唱するのは「熱田の湊(港)を造った職人」説。当時は湊も石積みで造っており、それを手掛けた石工職人を小牧山城に連れてきて「お前たちの技術で石の壁を造れ」と命令したのではないかと考えられる。

2つめの説は、第15代穴太衆頭の粟田純徳さんが唱える「穴太衆」説。小牧山城の石垣は、穴太衆の積み方によく似ている。当時、穴太衆のいる近江は信長の尾張とは敵国のはずだったが、穴太地区は比叡山延暦寺の傘下にあったため、職人は敵味方関係なく、全国どこでも呼ばれれば行っていたのだという。

「地元の石工」に任せるのが合理的?

「地元の石工」説を唱える仲根弘志郎さん

最後は「地元の石工」説。小牧市で代々石工を生業とする仲根石工造園3代目の仲根弘志郎さんによると、「小牧は石でできた山ばかりなので、すぐ手に入る『人と石』を使って石垣を造ったというのが、戦乱の世で突貫工事をしなければいけない時代では一番合理的だった」とする。当時の尾張には山岳寺院などはなかったとされるが、現在の小牧市に隣接する大口町や江南市は玉石の産地で、用水や輪中の護岸を造る職人がいた。仲根さんは「丸い石を積めれば四角い石は簡単」だと指摘する。

それぞれに説得力はあり、本当のところはまだ分からない。ただ、どの説だったとしても、信長の野望の実現に走り回った長秀の役割や人脈が重要だったことは確かだろう。

※粟田純徳さんの「徳」の正式表記は旧字体