新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。Jリーグ設立、ドーハの悲劇、日韓W杯招致…。激動の30年を平成の出来事と共に振り返ってみましょう。

世の中の流れ


2015年、中東情勢の不安定化により大量の移民がEUに流入。各国が対応に追われ、EU移民危機が起こった。

■世界中に拡散した暴力の波
平成27年(2015年)は、世界中を恐怖と不安が包んだ1年でした。特に、前年の2014年に樹立された「イスラム国(IS)」によるテロ行為が世界各地で数多く起こりました。特に11月にフランス・パリで起きた、同時多発テロは世界を震撼させました。飲食店などを狙った銃乱射事件と自爆テロが同時に複数個所で起こり、死者132人、負傷者349人を出す惨劇となっています。この事件後、「イスラム国」が一連のテロ行為に関する犯行声明を発表。ヨーロッパでも有数の大都市での悲劇は、世界中どこにいても安心できないという不安感を人々に植え付けました。

また、「イスラム国」によるテロ、及び暴力行為は中東の情勢を不安定にするとともに、ヨーロッパでの移民危機を生みました。シリアやイラクなどでは、戦闘によって故郷を追われた難民が大量に発生。国連などの主導により難民キャンプの設置が進められましたが、増え続ける難民が大量に欧州に流れ込みました。これにより、ヨーロッパ内での治安の悪化や、イスラム系移民への差別や偏見が表面化し、各国の政治・経済の分野において様々な問題が発生しました。

一方、2015年は日本にとっては野球界が再び大きく盛り上がりを見せた年でもあります。夏の甲子園では高校1年生ながら、早稲田実業高校の超高校級スラッガー、清宮幸太郎選手が大人気になり、「清宮フィーバー」が起こります。彼の姿を一目見ようと早稲田実業の試合には多くの高校野球ファンが集まり、特に甲子園には満員のお客さんが詰めかけました。

プロ野球ではニューヨークヤンキースで活躍していた、投手の黒田博樹氏が古巣の広島東洋カープに復帰。高額年俸を断って、自分の古巣へ帰ることを決断した黒田氏は男らしいと、話題になりました。



サッカー界

PKを外してしまった香川。アジアカップ2015はドラマが生まれることなく幕を閉じた。

■記憶に残らなかったアジアカップ
2015年1月、前年から日本代表の指揮を執っていたハビエル・アギーレ監督の下、日本代表はアジアカップに臨みました。アギーレ監督の日本代表は、守備を固めつつ、縦に速いサッカーを目指し、攻撃の自由度を大切にするチームでした。

連覇を目指したアギーレJAPANは、前年のW杯と主力はほぼ同じメンバーで大会に挑みました。グループステージではパレスチナ、イラク、ヨルダンと対戦し、3試合で7得点無失点と無敗で決勝トーナメント進出を決めます。

決勝トーナメント一回戦の準々決勝で、日本はUAEと激突します。ここまでの3試合、先発メンバーを固定して戦っていました。そして迎えた準々決勝でも同じ先発メンバーが選ばれます。中2日での試合となっていた日本には疲れの色が出ており、先制を許してしまいます。しかしその後は相手を完全に圧倒し、シュート35本を放つ攻勢をかけます。試合終盤の81分、ついに柴崎岳のゴールで追いつきますが、結局勝負は決まらずPK戦まで持ち込まれます。その結果4-5でまさかの敗退。前大会に比べてもチームとして仕上がりを見せていた大会だっただけに悔しい結果となりました。

日本代表は、今までアジアカップで、数々のドラマを生んできただけに、今大会は特に何も起こらなかった大会という印象になってしまいました。

■日本代表再出発

アギーレ監督の後任としてやって来たハリルホジッチ監督。「縦の速さ」として「デュエルの強さ」を求めた。

アジアカップの敗退から間もない2月3日、ハビエル・アギーレ監督の解任を日本サッカー協会が発表しました。これは2010-11年に指揮していたスペイン、リーガエスパニョーラのレアル・サラゴサ時代に八百長に関与していたという告発を受けてのものでした。在任期間は約半年。これは、1994年に約8カ月で解任されたファルカン監督を下回る、Jリーグ開幕以降で、最も短い政権となりました。

短命政権となったアギーレ監督の後釜としては、様々な監督が候補として挙がります。そんな中で白羽の矢が立ったのが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ人指揮官のヴァイド・ハリルホジッチ氏でした。ハリルホジッチ氏は、2014年のブラジル・ワールドカップではアルジェリア代表を率いて参加。同国を初のW杯ベスト16に導いていました。大会を通して変幻自在のシステムを採用。相手のウィークポイントを突く戦いを見せて結果を残すと、ラウンド16で対戦したドイツ代表戦でも延長戦までもつれ込む激戦を演じました。ヨーロッパのクラブやナショナルチームでの経験が豊富であり、格上相手との戦い方を熟知した手腕を期待され、日本代表監督に就任することとなりました。