昭和の日本競馬は、競走馬のトレーニング施設が充実していなかったため、ある意味レースも調教のひとつとして考えられていたフシもあったと聞く。

しかし、昨今では、美浦・栗東トレセンの設備が充実し、トレセン以外でも育成牧場の拡充など、競走馬がトレーニングをする施設が増えた。そのため、昭和の時代とは大きく変わり、1頭あたりの出走するレース回数が減少傾向にある。

ところが、時代を逆行するかのように”走りに走って”栄光を掴んだ名馬がいる。2010年の安田記念(G1)を制したショウワモダンである。

『昭和を偲んで』との馬名の由来どおり、ショウワモダンは、とにかく走ることで強くなった。そして、父仔2代同一G1制覇の偉業を達成したのである。

走り続けて強くなり続ける

ショウワモダンは、2004年3月31日、北海道は千歳の社台ファームで産声を上げた。父は1999年の安田記念にて、怪物グラスワンダーをハナ差に退け、初の栄冠を勝ち取ったエアジハード。母はトニービン産駒のユメシバイという血統だ。

母の馬名を聞けば、俳優の梅沢富美男さんが女形を演じ発表した昭和の大ヒット曲『夢芝居』を連想させる。そんな母馬も含め、昭和をモチーフにしたショウワモダンは、2歳の7月にデビューすると、前述の通り、とにかく走りに走った。

2歳では5戦を走破し、2着が3回あるものの未勝利に終わる。しかし年が明けてすぐに未勝利戦を勝ち上がると、中1週で条件戦も勝利した。

休む間もなく、3月に入ると皐月賞トライアル・スプリングステークス(G2)にて、重賞初挑戦を果たし4着。次走のニュージーランドトロフィー(G2)でも8着に敗れ、続くラジオNIKKEI賞(G3)でも11着と大敗した。

デビューから、ちょうど丸1年で10戦を走り切ったのである。

これは、単純に5週に1回の出走ペースとなり、当時の主流とも大きく掛け離れていた。

そんなショウワモダンは、その後も休むことなく、走り続けた。

秋に入り2勝クラスの条件戦をクリアすると、翌年の春までに4戦を走り抜く。続く15戦目となった斑鳩ステークスでは、鞍上にルメール騎手を迎え快勝。これで3勝クラスを勝ち上がり、オープン入りを果たした。

そして、3歳の春以来、久々の重賞挑戦となったダービー卿チャレンジトロフィー(G3)に出走。ここでは、マルカシェンクやキングストレイルといった重賞勝ち馬やG1馬ピンクカメオらに先着するも6着に敗れた。

それからもショウワモダンは、芝・ダート問わずにオープンクラスや重賞戦線を走り続け、明け6歳となった頃には、すでに32戦も走っていた。

しかしこの時点での実績としては、オープンクラスを2勝、重賞では先のダービー卿チャンレジトロフィーの6着が最高だったのである。

重賞初制覇、そして覚醒

6歳になっても例年通り、1月初旬から始動したショウワモダンは、オープン競走で9着、根岸ステークス(G3)で16着と惨敗するが、3月の中山記念(G2)で重賞レース初の馬券圏内(3着)に入った。

なお、この時から鞍上は関東の名手だった後藤浩輝騎手が手綱を取っている。

後藤騎手とのコンビ結成を機に何かが芽生えたのか、ショウワモダンは、そこからオープンクラスの東風ステークスを3着と好走。

さらに3年連続となるダービー卿チャレンジトロフィーに出走した。

ここでも7番人気と伏兵馬扱いだったが、レースでは早め先行から抜け出し、1番人気のトライアンフマーチらを寄せ付けずそのまま押し切る形で重賞初制覇を飾ったのである。

37戦目にして、初のタイトル獲得だった。

これで重賞馬の仲間入りを果たしたショウワモダン。次に目指すのは、2か月後に行われる春のマイル王決定戦の安田記念(G1)となるはずだった。

しかし、ここでもう1戦挟むのがショウワモダンである。その選択が馬にとって最良なのかどうかは別として、まさに昭和の時代を思い出させる調教=実践方式だ。

なお、ワンクッションとなったそのレースは、重賞ではなく、オープンクラスの別定戦メイステークスだった。

しかも、出走した馬の中で重賞勝ち馬は2歳重賞を制した後、12連敗中だった同世代のオースミダイドウの1頭のみ。そのようなメンバーでありながら、ショウワモダンは59キロの斤量も懸念されてか6番人気と低くみられていた。

おそらく、これは多くの競馬ファンが、前走の重賞勝ちをフロック視していたことになるのだが、結果的にはシルポートに1馬身と3/4差を付けて連勝するのである。

初の栄冠は父仔2代同一G1制覇

久々の連勝を飾り、すっかり名パートナーとなった後藤騎手を背に臨んだ第60回の安田記念。

ここでは、リーチザクラウンやキャプテントゥーレといった並みいる強豪馬たちに遅れをとる形で8番人気に支持されたショウワモダン。

しかし、レースでは、外枠から中団外目を追走する形をとり、好位置でレースを進める。

エーシンフォワードが逃げる展開。緩みないペースのまま府中の長い直線に入ると、外目から追われ、後藤騎手の鞭にしっかりと応えてみせた。

ゴール手前まで4、5頭が横一線となる混戦の中、真っ先に抜け出たのは、青地に白星が散らばる袖赤一本輪の勝負服ショウワモダンだった。

こうして、ダービー卿チャレンジトロフィーからメイステークス、安田記念と3連勝でG1初勝利を飾ったのである。

しかも、勝ち時計は1分31秒7という当時のレースレコードだった。

前述の通り、1999年の安田記念を制した父エアジハードと父仔2代同一G1制覇も達成し、祖父サクラユタカオーから父仔3代にわたるG1制覇という偉業も成し遂げたのである。

そして、キャリア39戦目での中央G1初勝利は、1984年のグレード制導入以降最多キャリアとして今も記録として残っている(2024年3月現在)。

ちなみに中央G1に限らず、G1という括りでみると最多キャリアでの勝利馬は、50戦目の引退レースにて、2001年の香港ヴァーズ(香G1)を制したステイゴールドである。

──晴れてG1馬となったショウワモダン。

ここで初めてといってもよい本格的な夏の休暇を経て、秋のマイル王を目指すことになるのだった。

走り続けた代償

初めて与えられた夏休みを経て、英気を養ったはずのショウワモダンだったが、この馬にとって休むことがマイナスに働いたのかも知れない。

4か月の休み明けで始動戦となった毎日王冠(G2)を皮切りに重賞、G1と出走するも全て着外どころか、大惨敗をみせ続けるのである。

挙句の果てには、連覇を狙った4度目のダービー卿チャレンジトロフィーでもまったくいいところを見せることなく7着に沈んでいる。

──話は少し脱線するが、かの有名な史上5頭目の三冠馬ナリタブライアンもたくさんのレースに挑み続けた馬であった。

管理した大久保正陽元調教師は、ナリタブライアンはとにかく闘争本能が強く、常に走る気でテンションが高かったため、レースに出走させることでその熱量を消費し、高ぶるテンションを抑えたという。

ナリタブライアンと同じタイプの闘争本能を持っていたかどうかは分からないが、少なくともショウワモダンは、走り続けたことでマイル王という栄光を勝ち取った馬だったことは事実である。

そして一度消えた火は、残念ながら、再点火することはなかったのだ。

その後も連敗を重ね、最後は連覇のかかった安田記念の出走を前に鼻出血にて引退を表明。通算成績47戦10勝でターフに別れを告げたのである。

まさに馬名の由来通り、昭和時代の”走ってなんぼ”と並走する形で栄冠を勝ち取ったショウワモダン。

また、重馬場・不良馬場では、6戦3勝2着1回とお手のものとし”重馬場巧者”としても知られていたショウワモダンだったが、ダービー卿チャレンジトロフィーから安田記念までの3連勝はすべて”良馬場”だった。

そう考えると何とも不思議な馬であり、どんな環境下であれ、本当に走ることが大好きだったのかも知れない。

そして、走り続けたその先に後藤騎手との出会いが、大きな分岐点となり、重賞初制覇のダービー卿チャレンジトロフィーから始まった3連勝が、ショウワモダンにとって、もっとも輝いた時期だったといえるのではないだろうか。

※クラス表記は現在のものを使用しています

写真:Hiroya Kaneko

著者:真実 良