高速道路の「120km/h」は危険か否か? レーシングドライバーが語る「運転者の意識」向上の必要性とは

クルマ自体の安全性を高めるのも重要な要素のひとつ

 国内の最高速度は高速道路での100km/hが上限とされてきた。クルマの性能は年々高まり、高速道路での車線も増え、交通環境も良くなるなど環境も変化。近年では東名高速の一部区間で、最高速度が120km/hに引き上げられている。そうすると、必ず異論を唱える人も出てくる。絶対速度の高さは交通安全に及ぼす影響が大きく、走行速度は低ければ低いほど安全であるという意見を持つ人たちだ。はたしてそれは正しい意見と言えるだろうか。

 最高速度120km/h区間はそれ以上の速度での走行は違反となるが、そこを110km/hや100km/hで走っても違反にはならない。ただ走行区分の決まりがあるので、追い越し車線をだらだらと走り続ければ120km/hでも100km/hでも違反ということになる。近年問題となっている煽り運転の厳罰化からも、走行区分を正しく走ることの重要性が再認識されているという状況だ。

 しかし、問題は違反かどうかを問うているわけではない。120km/hで走ることが安全であるかどうかが重要な論点だ。最高速度が300km/hも出るような最新の高性能車で言えば120km/hは低速に感じられる領域だろう。車両姿勢は安定していて直進性も高く保たれる。ブレーキ性能も優れていてフルブレーキをかければほんの数秒で停止できる。

 だが20年も30年も前に生産されたようなクルマは、当時には優れた性能であったとしても、現在もそれが維持されているとは限らない。タイヤの摩耗、適性な空気圧、ブレーキパッドやブレーキディスクのコンディションなども完璧な状態に保たれているかわからない。最新のスーパーカーでもこうした基本部分のメンテナンスに齟齬があれば本来の性能は引き出せないことになる。

 欧州のドイツには速度無制限のアウトバーンがある。そこでは200km/hが日本の100km/hのような感覚で受け取られ、実際に250km/h以上の速度で走行するクルマも多い。そうした超高速域で安全に走行できるように、日本の道路では無用と思われるような装備を高性能車の多くは備えられているのである。

 そんなアウトバーンでも、ひとたび事故が起これば悲惨だ。筆者も何度か事故現場を目撃したが、クルマは引き裂かれ部品は方々に散らばり悲惨な状況になる。高性能なドイツ車でも避けられない事故は起こりうるわけだ。

 右側通行のアウトバーンでは一番左側車線が追い越し車線となり、トラックなど速度の遅い車両は走行が許されていない。ごく稀に外国ナンバーのクルマや不慣れなドライバーが走行レーンを無視、あるいは鹿などが飛び出て来たりすることで緊急回避せざるを得ず事故に繋がるケースが多いと言えるのだ。

 アウトバーンでも高性能車やファミリカー、商業車など性能の異なるさまざまなクルマが混走している。走行レーン(走行区分)を守ることは、すべてのドライバーに徹底されなければ安全を担保できないのだ。

きちんと状況を把握し正しい車線と車速で走ることが大事

 東名高速の一部区間で最高速度が120km/hに引き上げられたことで、ドライバーが意識すべきことはクルマ対クルマの相対速度差を大きく作らないということだ。120km/hで走る走行車線に80km/hのクルマが車線変更したら速度差40km/hになる。走行車線で120km/h近くまで加速してから、追い越し車線に追いついてくる車両がないことを確認して車線変更するという丁寧な手順が求められる。そのために普段より遠い前方向を走行しているクルマの動きにもより手前から注意を払い、自分のクルマの周囲360度をつねにモニターしていなければならない。

 最近の運転アシスト機能はそうした場面で大いに役にたつ。だが運転経験が十分でないビギナーやサンデードライバー、感覚に衰えを感じている高齢ドライバーには、そうした注意を払う能力が万全とは言えないだろう。

 120km/hに引き上げられたことは、120km/hを誰でもどんな状況でも出してよい、安全が保証されているとうことではまったくない。絶対速度が高まれば否応なく衝突時のエネルギーは大きくなり、リスクも高くなる。その事実を認識し、より慎重に走行することが求められている。

 車両やタイヤのメンテナンス、最新モデルへの乗り換えなども積極的に検討し、いかに安全を確保するかを真剣に考え、走行区分を徹底して守る。ドライバーひとりひとりの安全意識をより高めていかなければ、120km/hへ引き上げられたことの罪悪だけが交通社会に陰を落とすことになってしまうだろう。クルマが高性能になっているというだけでなく、ドライバーのモラルやマナー、運転スキル、安全に対する意識が高まっているかどうかをより論点として着目すべきなのだ。