運ばれてきたかき揚げを見て、あまりの大きさに目を疑ってしまった。手を広げて比べてみると、ほとんど同じくらい。そのうえ厚さは5、6センチほどもある。

 その名も「雷神揚げ」は、創業当初からの「中清(なかせい)」名物。いや、浅草名物といっていいだろう。この巨大かき揚げを目当てに、同地を訪れる人が多いのだから。

 ロサンゼルスのチャイニーズシアターのように、数多(あまた)の芸能人の手形が並ぶ浅草公会堂。その真向かいに見える木造建築が、「中清」だ。玄関に辿り着くまでには、石畳の通路を少々歩かねばならない。奥まった地に建っていることが、老舗の風格をより高めている。

敬規さんと息子の優太さん。
敬規さんはやりたい仕事があり、企業への就職が内定していた。しかし大学卒業前の1月に、父で4代目の清一氏が急逝。店を継ぐことを決意し、横浜の天麩羅屋に修業に入った。「私は子供に、店を継ぐようにとは一切言いませんでした。でも長男の方からやりたいと言い出したんです。シメシメと思いました(笑)」

 「ここに店を構えたのは、明治3年(1870)です。それを創業の年にさせていただいています」

 6代目店主の中川敬規(よしのり)さんが説明する。

 もともとは屋台だったという。

 「初代の中川鐵蔵(てつぞう)は駿河の武士だったそうですが、身分を捨てて江戸に参りまして、商いを始めたんです。幕末のことです。その頃は飲食店の多くは屋台で、初代も広小路通りで屋台の天麩羅屋を開きました。広小路通りといっても、上野周辺ではなく、雷門の前あたりのことです」

 なぜ江戸に出たのか、なぜ天麩羅屋を選んだのか、どういった料理だったのか。残念ながら詳細は分からない。当時の天麩羅は魚介類を串に刺して揚げ、屋台の立ち食いで楽しむファストフードだったといわれる。初代の屋台もそうだったのだろう。

 いずれにしても商売は成功し、前述のように明治になって店舗を構えることができた。それを機に、苗字の「中」と息子(清五郎(せいごろう)氏・後の2代目)の名の「清」を取って、店名を「中清」と定めた。