例によって大統領選で有権者を引きつけるためだけの、ただの放言だったのか。あるいは本気で考えているのか――。トランプ米大統領の「NAFTA撤廃」発言だが、早晩、それは無理でしょうという話に落ち着きそうだ。

 NAFTA(北米自由貿易協定)は長らく、最も成功した協定として新自由主義を推し進める経済界で賞賛されてきた。だが、メキシコから見れば、それは貿易のみならず、国民の文化も日常も大きく変える制度だった。

 例えば、メキシコはトウモロコシや小麦など主食から畜産品までを米国からほぼ一元的に輸入するようになり、メキシコ農民は一気に職を失った。1994年1月に発効する際、メキシコでは、これを押しとどめようと左翼ゲリラ、サパティスタ民族解放軍が武装蜂起し、多数の死者を出す紛争にまで発展した。それだけ、メキシコにとって協定の衝撃は大きかった。

 トランプ氏が何かと標的にするメキシコからの違法移民にしても、地産地消の慣習を含め地場産業を壊滅させたNAFTAの影響が大きい。人々の日々の食事は米国的なファーストフードが主流となり、国中に肥満や生活習慣病が蔓延したばかりでなく、昼食時間の短縮など、日々の暮らしもストレスフルになっていった。

 メキシコは中南米ではブラジルに次ぐ「経済大国」であり、経済指標では最も優秀な地位を確保している。ひとえにNAFTAのお陰だが、その裏で社会構造を変えられてきたのも事実だ。

 米国への輸出額は2016年時点でメキシコの総輸出額の81%を占めるに至り、仮にトランプ氏が脅す「撤廃」が冗談でなくなれば、メキシコは再び、全てを変えざるを得なくなる。

 果たして、トランプ氏にそんな思い切ったことができるのか。それによるコストは国境に壁を築く「夢想」より、はるかに高くつきそうだ。

 彼は撤廃を散らつかせる理由に貿易不均衡を挙げる。16年の貿易額を見ると、米国は中国、カナダに次ぐ貿易相手国、メキシコから2940億ドル相当を輸入している。逆方向は2310億ドルで、差し引き630億ドルもの貿易赤字があると言うのがトランプ氏の不満だが、識者らは一様に、内実を知らない単純思考だと呆れている。

 過去23年間、金融はもとより、商社から製造、運輸、流通、外食産業まであらゆるメキシコの分野に米企業は入り込んできた。メキシコ人の国内消費はほぼ全て米国かその系列企業に向かっていると言っても過言ではなく、メキシコとの貿易調整で最初に被害を受けるのは米企業なのだ。メキシコ経済研究所によれば、メキシコから米国への輸出額の約45%が米国企業の「取り分」だという。

 撤廃となれば、対メキシコ輸出額が390億ドル(16年)にも上る米国の農業分野のみならず、あらゆる分野が打撃を受ける。「二国間」と言っても、米国はすでにどっぷりとメキシコに入り込んでおり、隣国への刃は自分に向けられる。

 「トランプなどまともに相手にしても時間の無駄だ」とはフィナンシャルタイムズ紙が2月に伝えたセディージョ元メキシコ大統領(現米エール大教授)の言葉だ。

 8月16日より始まったNAFTAの米、カナダ、メキシコの再交渉は、せいぜい制度を微調整する程度で終わる、というのが、三国の識者らの大方の見方だ。トランプ氏を下手に興奮させないよう、噛んで含めるように現実を説くのが肝要だ。

  
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