今月から、筆者の経営するUEIは10年以上続いた監査役を交替することにしました。

 新しい監査役は慶應義塾大学教授准教授でNPO法人CANVASの石戸奈々子先生で、石戸先生とは全国小中学生プログラミング大会(JJPC)の事務局などで一緒に仕事をしていたときの仕事ぶりから、ぜひ監査役にとお願いして就任していただきました。

 我々はこれから新しい会社を3つ作る予定です。
 そのうちひとつは、人工知能を利用したサービスを専門に行う会社、もうひとつは人工知能に特化したデータ作成を専門に行う会社、最後のひとつは、人工知能時代に対応した人材の教育事業を行う会社です。

 ほんの数ヶ月のうちにいくつもの会社が立ち上がるので驚く人もおられるでしょうが、筆者はこれまで沢山の子会社や組織を作り、自立させてきた経験があります。さすがにこのペースで子会社を作るのははじめてですが、上手くいくと思っています。

 さて、教育事業を考えるということは、教育を考えるということでもあります。
 まず考えなければならないのは、これからの時代に求められるのは「型破り」のエリートだということです。

 前提条件として、人工知能が発達すると、人間はほとんどの知識を学ぶ必要がなくなってきます。結局、入学試験で求められるのは地頭の良さよりも従順さ、忍耐強さです。

 そういうふうに躾けられたから、突然大学四年になった就職活動を行い、「言われたことをそのとおりにやる」というそれまでの価値観から、突然「自分の個性」で戦わなくてはならなくなり、多くの学生が混乱するわけです。

 先日、UEI本社で人工知能対応人材のインターン募集を行いました。10倍近い倍率で応募が殺到したわけですが、面接の直前に15分程度の簡単な筆記試験をやると、基本的に履歴書がウソばかりという人が目立ちます。

 いくらいい大学に行ってようが、「深層学習を勉強しています」と言っていようが、「数字の7はテンソルで言うと何階か」という質問に堂々と「3」と書いているような人や、CNNは何の略かと聞かれて「アメリカのニュース専門ケーブルテレビ局」だとか書く人が深層学習を勉強したいと言ったらそれはウソだとすぐにわかります。

 要するに言行不一致なわけです。
 こういう人材は、型破りというよりも単なる嘘ツキなのですが、問題なのは自分が嘘ツキだという自覚がないことです。

 世の中にはものすごくたくさんの「人工知能を仕事にしたい」という学生が居ます。けれども、実際にごく簡単なテスト、人工知能を少しでも齧っていれば当然知っているはずの知識を問うだけのテストであっても突破できないということは、要は口では「人工知能をやりたい」と言っていても、身体が動いてないのです。今やインターネットを少しでも探せばいくらでも良い情報はあるわけです。独学でかなりのことができます。にも関わらず簡単な質問に答えられないということは、要は検索することすらサボっているわけです。

 こういう人材はうちに限らずどこからも必要とされません。「口ばっかり」なわけです。

 ただ、今はそういう学生は少なくありません。要するに受け身なのです。
 教育を与えられるのが当然と思っているから、誰かが教えてくれるまで自分ではなにも動かないわけです。

 ただ、こういう性質はごく簡単な訓練で直せます。要は「好きなことはとことん追求しろ」ということを心がけるだけです。マンガを読むのがとまらなくなる人や、ゲームを遊ぶのが止まらなくなる人は決して受け身でいることはありません。自ら次の巻、次のステージめがけて進んでいきます。

 興味を持ったら、まずネットで調べる。触ってみる、勉強してみる、大学の図書館や本屋さんに行ってそれっぽい本を開いてみる。それで、難しくてわかんなくても諦めない。まずこの「諦めない」というところが肝心で、これは難しいことに直面しても諦めずに粘ったら成功したという成功体験があれば易易と乗り越えることが出来るようになります。

 筆者の個人的な経験で言えば、小学五年生の頃、学校で模擬試験がありました。その問題は複雑怪奇で、ちょっと頭の使い方に自信があった筆者の小さなプライドが粉々になるには十分でした。

 筆者の小学校では中学校とエスカレーターではあったのですが、外部から受験してくる学生と学力レベルをあわせるため、小学五年生から毎日補習が行われていました。そこで解かされた問題は、麻布、開成、武蔵といった有名私立中学の入試問題だったのです。

 その頃、東京の有名私立中学のことなど知りもしなかった田舎の小学生たちは必死に補習を受けて、なんとか目の前の問題を解こうと毎日頭を使いました。一年もすると、たいていの問題はパターン化されていることがわかり、一年前にやったときには手も足も出なかった問題となんとか渡り合えるようになり、さらにもう一年経つとどんな問題でも面白いほど解けるようになり、いざ受験本番になると、問題が簡単すぎて拍子抜けする、という体験がありました。

 こういう体験を若い頃にしておくと、たいがいどんなに難しい問題に直面しても、「人間がつくり人間が解くように作られた問題ならば、必ず解けるはずである」という自信を持って対処できます。

 こういう自信が、受験勉強をくぐり抜けてきたこれまでのエリートのへこたれない気質を形作っているのでしょう。

 ただし、この方法の問題は、おそらくこれまでのように五教科がまんべんなくできることが価値あることと認められる世界では意味があったものの、これから先はそうではなくなるということです。

 これまでのエリートが「型通りのエリート」とすれば、これから必要とされるのは「型破りのエリート」です。

 大半の専門知識をAIが補完すると考えると、五教科がまんべんなくこなせるよりも、どれか一つ、自分の興味が持てるものを見つけて徹底的にその分野を深掘りし、そうした深掘りした領域をいくつも持つ、いわばスパイク型の人材が新しいエリート層になっていくでしょう。

 しかし、型破りのエリートは型どおりのエリートと違って育成が難しいのです。

 たとえば数学に関してです。

 本来、教師は誰でも自分の専門分野を深掘りした話ができるべきですが、全ての数学教師が一流の数学者でないわけで、話せる内容もどうしてもいくつかの「誤魔化し」が出てきます。そもそも数学にしても、数に関する全ての謎が解けているわけではない(解けているとしたら数学者は仕事がなくなっています)ので、「これが答えだ」と説明することにも多少の無理があるわけです。

 生徒にきわどい質問をされた時にその先生個人が「わからない」のか、現代の数学でも「解明されていない」のか区別がつかないわけです。余談ですが筆者は子供の頃、数学の先生に数学の質問をしてもぜんぜん答えてくれなかったのでそれ以来、学校の数学の先生の持つ数学的知見を極めて疑い深い目で見ています。

 人工知能分野でも数学でも物理学でもそうですが、最先端の研究者は「何がわかっていて、何が分かっていないか」を把握しています。分かってない領域を認識しないと仕事がなくなるからです。

 だから一流の先生ほど「それはまだわからないんですよ」と言います。二流の先生はわからないことがあることを隠したがります。その誤魔化しは、鋭い子供には見抜かれています。

 今の学校教育は、要するに「教えやすい教えかた」を最優先していて、「学びたくなる教え方」という指標を完全に無視しています。だから人気のある先生の評価が必ずしも高くないのです。

 最良の教育とはなにか。それはもちろん、最良の学者から直接学ぶことです。

 とはいえ、基本的にはどの分野もほとんど独学で学べます。学校に行って誰かに教えてもらう、という発想そのものがどこかいびつなわけです。

 では最良の学者が子どもたちに与えられるものとは何か、と言えば、それは熱意です。自分がその分野を愛し、研究に日々ワクワクしながら情熱を注いでいるのだという熱意を直接子どもたちに見せつけることです。

 子供は敏感にそれを感じ取り、一流の精神に触れることができます。

 早い段階で一流に触れることで、自分の興味の持ちたい分野を見つけ、とにかくそこを深掘りしていきます。行き詰まったら、次に興味を持てる分野を見つけて、そこも深掘りします。豪華なデコレーションケーキを食べるようなものです。チョコレートに飽きたらイチゴを食べるように。学問というのはあらゆるものが魅力に満ち満ちたものです。それが良薬口に苦しだと思われているようでは一流の教育とは言えないと思います。

 となると、教育に求められる機能の主軸は全ての教科をまんべんなく教えることではなく、世の中にはどんな面白い専門分野があるのか、カタログ的に見せることです。これは図書館の持つ機能と似ています。

 年に一度でいいので、中学生や高校生が一週間程度、超一流の講師の熱量に直接触れる機会があると、それだけでも子どもたちの人生は大きく変わるはずです。子どもたちがやらされるのではなく、自分が主体的に学ぶ、学びたいと自ら考えるようになることがなによりも重要なのです。

 複数の分野を深掘りすると、分野間の思わぬ相関関係を見つけてしまったりします。そこがクリエイティビティの生まれる瞬間です。

 そういう人間こそがAI時代にAIを使いこなすことが出来るようになります。英語が全く分からなくても、むしろ特定分野に関しては誰にも負けない、という人間だからこそ、他の誰も考えつかないような型破りな方法でAIを自在に使いこなす人間になれるのです。

 新会社では将来的にそういう新しいタイプの教育のあり方も模索していきたいと考えています。