先週、オーストリア・リンツで開催されていた「アルス・エレクトロニカ」というイベントに参加してきた。
僕自身にとって、アートというのは比較的縁遠いものだったが、昨年参加した際、あまりに時間がなかったため一泊二日の強行軍で見て回ったときに現地に集まった人々との交流を経て、「なんともったいないことをしたんだろう」という後悔があったためだ。

初めてアルス・エレクトロニカに来たのは10年と少し前、当時週刊アスキーの編集長だったF岡氏の誘いがきっかけだった。
その頃の僕はアートというものがサイエンスやテクノロジーに果たす役割を理解できず、せっかくアルスを訪れても「中途半端なテクノロジーで中途半端な表現」ばかりが目につく、あるいは、難解すぎて理解されることを拒否する作品群、という程度の陳腐な感想しか持つことができなかった。

それから何年かして、enchantMOONという奇妙な端末を作るに至って、僕を取り巻く世界が劇的に変化した。伝説のアーキテクト、いやむしろコンピュータ思想家とでも言うのが相応しいかもしれない、アラン・ケイとの邂逅、そしてその志を受け継ぎ、タンジブルビットを標榜する石井裕との出会い。

そうした出会いを通じて、それまで僕が特に興味を持たなかったもの、見落としてしまっていたものが怒涛のような後悔の念とともに蘇ってきたのである。

石井裕先生は今年スコットランドで開催されたヒューマン・コンピュータ・インタラクションの学会(SIGCHI)でも彼自身触れていたが、「アート」という文脈に幾度か救われた経験を持っているという。

「科学」として捉えきれない、論文として許容しづらい内容であっても、「アート」としてなら理解・評価可能であることは往々にしてある。

たとえば北野宏明は、「ロボットによる世界規模のサッカー大会(RoboCup)」で西暦2000年に受賞している(PRIX ARS ELECTORONICA(http://90.146.8.18/en/archives/prix_archive/prix_projekt.asp?iProjectID=2246))。

あまりにも先進的過ぎる科学的アイデアは、アートとしてしか理解できない場合があるのだということを、僕は恥ずかしながら最近知ったのだ。

一年ぶりに来たアルス・エレクトロニカでまず驚いたのは、あまりにもあらゆるところにニューラルネットワークが浸透していたことである。

「鳥の鳴き声の分類」というテーマで、ごく当たり前のようにオートエンコーダーとXG Boostなどの手法が試されており、それが「アート作品」として展示されている。これは学会ではないので、手法が新しいとか精度がどれくらいかといったことは無意味で、「ただ表現手段として人工ニューラルネットワークを使った」だけに過ぎない。

このアンドロイドAi-DA(アイーダ)は、両目に埋め込まれたカメラから得た視覚情報をもとに絵を描くアーティストロボット。
手をリアルに造形するよりも顔をとことん作り込むというやり方にむしろ清々しさを感じた。

両目の瞳にカメラが埋め込まれているため、被写体(?)となる側はこのアンドロイドと見つめ合うことになる。極めて不思議な体験だ。

AIの先生がAIの生徒に線の描き方を教える「教室」を表現したアート
それぞれのAIが可動するカメラと鉛筆を持ったロボットハンドを有し、実際に線を描く時はカメラで手元を見る

生徒AIはそれぞれ個性があり、ゆっくり確実に描こうとする者や、さっさと沢山描こうとする者などが居る。

これらはどこまで本当に実装してあるかはわからないが、イマジネーションとして「AIによる世界はこうなる「AIはこう使われる」という点では大まかなヒントになる。そもそもアートイベントとはヒントを掴む場所であって、答えを教えてくれる場所ではない。そこが学会との大きな違いだ。

学会も、ヒントになる要素はふんだんにあるが、その多くはほとんど「答え」めいたものを提出することが義務付けられる。
自分の理論の新規性や優位性を定量的・定性的に説明しなければ論文とは見做されない。

ところがアートという文脈で区切ると、そうした制約から開放され、人は自由に想像力の翼をはためかせることができる。
誰にも価値がわからない、確実にお金やその他のメリットとして返ってくることが保証されない、そのようなことに没頭するエネルギー(資金、熱量、時間)を持てること自体がひとつのアート活動であり、普通の人にはそんなエネルギーはない。だからこそアーティストは尊敬されるべき人々と解釈されるのである。

少し大人になった僕から見た、いまのアルス・エレクトロニカの作品群の共通項はまさしくこの「エネルギー」が惜しみなく注ぎ込まれているということで、その情熱が一体どこから湧いてくるのか考えてみるだけで興味深い。

たとえば「RoboCup」というアイデアが登場した時、コレは少なくとも学術的な論文として、定性的・定量的な評価は不可能だ。実際にやってみるしかない。したがって、発表時点でRoboCupを評価できるのはアート的な文脈しかなかったと言われれば納得せざるを得ない。

「タンジブル」や「ラディカルアトム」といった構想・アイデアも同じだ。その意味では落合陽一の「デジタル・ネイチャー」も、周囲の人を含めて誰にも未だ理解できず、しかし本人が相当な情熱を傾けて取り組んでいる作品群を見て、薄らぼんやり想像するしかない。

こうした活動を「役に立たないこと、無意味なこと」と切り捨てるのは簡単だが、SFがビジネスマンの教養と呼ばれる時代(https://diamond.jp/list/feature/p-sfthreebody)に、アートを切り捨てて考えるのはいかにも矛盾している。なぜならSFとてアートのいち形態に過ぎないからである。

リニューアルされたアルス・エレクトロニカ・センターはさらに衝撃的で、僕の狭い知識で知る限り、世界で唯一か、最も意欲的にディープラーニングを取り入れた展示を展開している。

これは、手前のカメラになにか「モノ」を見せると、それに反応した畳み込みニューラルネットワークのそれぞれの層のそれぞれのフィルター群がどのように反応し、その「モノ」を何と判別したかをリアルタイムに見せる展示である。

ディープラーニングを中心としたAIを生業としている僕でさえ、このような展示は見たことがない。もちろん理屈では知っていたし、こういうことができることは頭では分かっていたが、いざ誰でも触れる形になると、ひとつの大きな感動がある。これを「たいして新しいテクノロジーでもないじゃないか」と馬鹿にするのは簡単だが、これを常設展示として実装する努力を考えると頭が下がる思いである。

他にも、簡単なスケッチからリアルな映像を生成する技術のインタラクティブデモなど、子供でも体験できる展示が非常に多く、「アルス・エレクトロニカ・センター」と呼ぶよりも「アート・アンド・AIセンター」とでも呼ぶべきとさえ思えるほど、隅々までニューラルネットワークの啓蒙活動が浸透していたことには本当に舌を巻いた。

最先端の理論を論じる学会は、それはそれで価値はあるのだが、「ふつうのひとにどう伝えるか」「AIをどう使うか」「どうインサイトを得るか」というところが疎かになりがちで、ともすれば机上の数値をこねくり回すだけで満足してしまいがちである。そのうえ、実験によってしか性能を確かめられないので、単独の論文だけから本当にその理論が正しいのか間違っているのかを見抜くこと自体がニューラルネットワークの論文では難しい。

誰か第三者が再現実験を繰り返して「どうやらこの方法が本当に有効そうだ」ということを数年かけて確かめなければならないのが現実である。これが通常の工学系の論文とは根本的に違うところなので、ニューラルネットワークの論文というのは、理論と実験の組み合わせでなければ成立しないし、その実験も、誰か第三者が再現してくれて初めて「確からしい」という蓋然性を得ることになる。

僕のように普段からAIに触れている人間は、「良さそうな論文」を見つけても、それを鵜呑みにはせず、まずは再現実験をしてから、「どの程度確かなのか」「どの程度、宣伝文句通りなのか」という肌感覚を常に持つ注意深さが必要だ。やはり論文にはいいことしか書いてない場合が多いので、どれだけ見事に見える論文でも決して万能ということはない。

AIは運によるところが大きいので、どうしても論文が誇大広告になりがちだ。論文の書き手としては、第三者に注目してもらってサイテーションしてもらうか、再現実験をしてもらいたいわけだから必然的にそうなってしまう。

したがってニューラルネットワーク関係の学会に行くと、疑心暗鬼の塊となって論文やポスターを見なければならず、かなり疲れる。

それに比べると、アートイベントは非常におおらかな気持ちで、純粋に技術の行く末について想像力の翼を広げることができる。

そしてアートの文脈にどんどんAIが取り込まれていることにAI側の人間はもっと注意を払うべきだろう。
なぜなら未だもって正しく一般的な「AIの使い方」というのは発見されておらず、特別な用途の特別な解放(ソリューション)としてのAIの提供が始まった段階に過ぎないからだ。

さて、今年のアルス・エレクトロニカのもう一つ大きなテーマは「AI x Music」であった。

そのテーマに準じて、さまざまな演奏が試みられたが、実際には本当の意味での「AI」を音楽に適用した例はこの段階では少なかった。

テレビドラマ「SPEC」の音楽を担当したことでも知られる電子音楽アーティストの渋谷慶一郎(http://atak.jp)と、ビジュアルアーティストのJustine Emard(http://justineemard.com)のコンビで、高野山の高僧をボーカルに迎え、独自の世界観で圧巻の音楽体験を作り出していた。

これがAIに直接関係するのかというと、たぶんしていない。しかし逆に直接的にAIを音楽に活かし未完の曲を完成させたものの演奏も行われたが、これには人の心を揺さぶる力がなかった。渋谷らはすなわち「AIを使わないこと」によってむしろ「AIとはなにか」を突きつけ、ボーカルの念仏はもはや我々日本人でも聞き取ることが不可能であり、「曲とはなにか」「歌とはなにか」ということの問いかけも同時に行っていることになる。

それでもまずは「掛け声」として「AI x Music」とアルス・エレクトロニカが主張することが大事で、こうした全体的な潮流(ムード)は、うまくハマれば数年後にまさしく「ドンピシャ」な形となって忽然と現れる土壌となる。

ひとまず「AI x Music」という掛け声をかけることは、この土壌を耕すことを意味する。

こうしたことはアルス・エレクトロニカの歴史上、繰り返しおこなわれていて数年前に掲げられたテーマが数年後に結実する、ということが何度もある。2016年のテーマはズバリ「Radical Atoms」であった。

本来はCHI(コンピュータ-ヒューマン・インタラクション)という学術的な分野で語るべきこのテーマが、「アートのテーマ」として突きつけられた結果、いま見れば会場の展示の多くは大なり小なり「Radical Atoms」という石井裕の掲げるテーマの影響を受けている。


ミームにとっての勝利は、「定着する」ということであり、ミームとしての「Radical Atom」は静かに勝利を収めつつある。

もしもアルス・エレクトロニカでこれをテーマとしなかったら、このミームはいまほど存在感を持って生き残らなかったかもしれない。

今年のアルス・エレクトロニカでは、AIというものとの対峙の仕方を人類がまだハッキリと定めきれてない現代、アートという文脈が、ひとつの光を照らしてくれる可能性を示してくれたように思う。

僕はもはや一回の経営者に過ぎず、アーティストの立場でこの世界に関わることはできない。従って傍観者として見ることしかできないのが口惜しい気分ではある。この技術的変化の激しい時代にメディアアーティストとして活躍できる人たちは幸せだ。情熱さえあればなんだってできるんだから。

数年後、アルス・エレクトロニカはAIをどのように消化しているのか、今から楽しみだ。

アルス・エレクトロニカで起きた出来事はとても文章では語り尽くせないので、いくつかYoutube番組の形でまとめた。
興味のある人はこちらも参照して欲しい。河口洋一郎や石井裕といった当代一の頭脳がアルス・エレクトロニカをどう捉え、どう生き抜こうとしているか、そのヒントになれば幸いである。