新型コロナ・ウイルスの影響によってオープンが遅れた「弘前れんが倉庫美術館」は、コンペで勝利した田根剛が設計したものだ。注目すべきは、フランスにも拠点を置いて活躍する若手建築家による日本国内の最初の公共施設であること。もっとも、新築ではない。築約100年になる酒造工場(戦後はシードル製造所として使われた)をリノベーションしたものである。

▼弘前れんが倉庫美術館
弘前れんが倉庫美術館

日本のこうしたプロジェクトは、キレイに仕上げることが多く、しばしば新築同様になりがちだが、これは昔の感覚が随所に残っている。まず、外観はほとんどそのままだ。屋根を金色に輝くチタンで葺き直したり、玄関にギザギザが目立つ特殊な煉瓦積みのアーチをつけたくらいで ある。内部もすべてをホワイトキューブとせず、かつての壁の質感を残し、二階の事務室では木造の壁やガラスなど、来館者が見えない部分でもオリジナルを保存した。ヨーロッパ的なスタイルのリノベーションなのである。美術館のまわりを歩くと、遺跡のような雰囲気すら漂う。ちなみに、隣接するカフェ・ショップ棟は、正面の外壁以外は新築だが、既存の倉庫と調和する古びた煉瓦を用いるなど、時間的な印象を操作している。

▼弘前れんが倉庫美術館の展示室
弘前れんが倉庫美術館の展示室

ところでこの建築は、かつて弘前出身のアーティストである奈良美智が仲間たちと展覧会を行なった場所でもある。長く使われていなかった倉庫の大空間を、期間限定で現代アートの空間に変えた画期的な企画として知られているものだ。筆者にとっても、彼の「A to Z」展以来になるので、ここは14年ぶりの訪問である。

▼2006年の「A to Z」と弘前れんが倉庫美術館エントランスの彫刻
2006年の「A to Z」と弘前れんが倉庫美術館エントランスの彫刻

こうした縁から、弘前れんが倉庫美術館のエントランスに奈良の大型の彫刻が設置され、またオープニングの「Thank You Memory −醸造から創造へ−」展にも参加している。この展覧会は「醸造」というキーワードを元に、弘前という場所の記憶を巡る作品群によって構成されていた。いずれの作品も、地域資産を掘り起こしていたが、同館はそれらを収蔵する予定らしく、今後、弘前とのつながりがあるコレクションが形成されるだろう。

弘前の建築といえば、前川國男だろう。彼がル・コルビュジエの事務所での修業を終えて、日本に帰国してすぐに手がけた「木村産業研究所」(1932年)が今も残っている。東洋風が求められていた東京国立博物館のコンペに対しモダニズムの案を提出し、予想通りに敗れた後の最初の作品であり、実質的にデビュー作といえるだろう。

▼木村産業研究所
木村産業研究所

戦後、前川は日本各地にモダニズムによる数多くの公共建築を手がけたが、「弘前中央高校講堂」(1952)など、特に弘前にはいくつもの作品がある。特筆すべきは、1956年から76年までの藤森睿が5期にわたって弘前市長だった時代、前川は「弘前市役所」(1958)、三味線大会で有名な「弘前市民会館」(1964)、「弘前市立病院」(1971)、「弘前市立博物館」(1976)を手がけていることだろう。現在なら、市長と建築家が癒着している、とメディアから批判されるかもしれないが、これらは街の資産として残っている。

▼弘前市民会館と弘前市立博物館
弘前市民会館と弘前市立博物館

さらに、藤森の後任として1976年から1992年まで4期務めた福士文知市長の時代にも、「弘前市緑の相談所」(1980)、「市民中央広場」(1982)、「弘前市斎場」(1983)が竣工した。前川の死去は1986年だから、亡くなる直前まで弘前の仕事が続いたことになる。行政の長が変わると、独自性を打ち出すべく前のプロジェクトをつぶすケースも少なくないが、弘前では一貫して前川建築を増やしていた。

ビルディングタイプとしても、病院、学校、ホール、博物館、斎場まであり、まさに揺かごから墓場まで、市民は彼の建築と付き合うことになる。また、前川の処女作から晩年の作品までが存在していることから、彼の作風の変化も分かる。すなわち、帰国直後の白いモダニズムから、コンクリートの打ち放し、そして日本の風土や気候を意識して打ち込みタイルを用いた落ち着いた後期の作風までを辿ることができるのだ。最後の斎場になると、車寄せから伸びる大屋根がとてもシンボリックである。

▼弘前市民斎場
弘前市民斎場

真に驚くべきなのは、スクラップ・アンド・ビルドが当たり前の日本において、修復を重ねることで、ほとんどが現在も保存されていることだ。どうやら、彼のモダニズム建築がこの地で愛されているのである。実際、街を歩くと、前川の名前をちゃんと記しており(日本では、設計者の名前を紹介すること自体、稀である)、彼の建築が弘前のアイデンティティとなっていることが伝わってくる。

ル・コルビュジエの西洋美術館が世界遺産に登録されたことを契機に、近代建築の観光資源化の促進と需要の創造を促すべく前川建築を活用する9の自治体が設立した「近代建築ツーリズムネットワーク」の事務局(http://www.city.hirosaki.aomori.jp/jouhou/keikaku/matn.html)が、弘前になっているのも頷ける。加盟している他の自治体は、埼玉県、東京都、神奈川県、岡山県、熊本県、新潟市、福岡市、石垣市である。つまり弘前は、金沢と同様、建築というものの存在感が強い地方都市なのである。

他にも弘前市は、堀江佐吉による「擬洋風」と呼ぶには失礼な「旧第五十九銀行本店」(1904年)を含む、近代の様式建築も良く残っている。

▼旧第五十九銀行本店
旧第五十九銀行本店

また、既に取り壊された建築についても、追手門広場のミニチュア建造物群で紹介していた。

▼追手門広場のミニチュア建造物群
追手門広場のミニチュア建造物群

地域性を考慮しながら優れた住宅を手がける前田卓や蟻塚学らの現代の建築家も、同市に事務所を構えている(本連載の東北住宅大賞の後編(https://wirelesswire.jp/2020/06/75099/)を参照)。

▼弘前ねぷたまつりの様子
弘前ねぷたまつりの様子

ところで、都市空間の活用という意味で、弘前の「ねぷたまつり」は興味深いものだった。歩道で場所取りをして椅子を置き、市民が観覧しているという公共空間の使い倒し方である。そしてヤンキー魂が溢れる、ねぷた群のダイナミックな可動デザイン。まさにヤンキーバロックというべきものだ。下手な現代美術よりも迫力があり、確実に大衆の支持を獲得している。