言語学は記号学をその嚆矢とし、人が使用する書き言葉や話し言葉などの自然言語の構文や意味を科学的に分析する学問として誕生した。また、いわゆる語学は正確には言語学には含めないことが多いが、いうまでもなく、相互参照し合う強い関係がある。

特に日本語の場合、いわゆる「食」に関する語彙数が「世界一多い」ということもあるので(注1)、食品や食事に関連する言語や言葉とその用法に関する課題を中立・公正・科学的に取り上げようとする「食品言語学」なる学問があっても良さそうな気がするのである。

食品にまつわる報道や言論は、それが経口という行為を伴い、健康や生命の維持に直結することから、極端な思い込み(バイアス)や危険思想が生じやすい。食品言語学は、これらを是正し、かつ安全で美味しい食事を楽しむための「言葉の使い方」を指南することを目的とする。

そもそも、過剰摂取して問題のない食材など存在しない。例えば「バナナがカラダに良い」かどうかは、実は「よく分からない」のだ。朝から晩までバナナばかり食べ続けていたらおかしくなるに決まっているし、そもそも体が受け付けないだろう。つまるところ、個々の食材が単体で健康を語る資格はなく、「適度なバランス」こそが正しいゴールだということは、周知の事実でもあるはずだ。

ところが、この適度なバランスという結論は、「あまりにも面白くない」。公共放送でさえ、「納豆はカラダに良いか」というテーマで1時間の番組を作ったりする。しかもそれが妙に視聴率を稼いで、翌日のスーパーの棚からは納豆が消えていたりするわけで、実に嘆かわしい状況である。

あるいは、「保存料」という言葉を聞いただけで拒否反応を示すエキセントリックな消費者も多いらしいが、普通の食生活を送っていれば、カラダにインパクトを与えるほど大量の保存料を摂取するのはほぼ不可能である。

こういったカラダへの単純な良し悪しでしか見ないという点で、今、最も割りを食っているのがコメ(米)ではなかろうか。歴史的にも、食のバランスを取るための支点(fulcrum)として機能した食材なのだが、糖質制限ブームで悪者にされ、必要以上に消費が落ち込んでいる。さらにコメは、日本人にとっては単なる食材ではない。金融機能をも併せ持つ生活のプラットフォームだったのだ。何しろ米の先物取引は、日本の発明である(江戸幕府公認で1730年に設置された大阪・堂島米会所)。

いずれにしても、こういったバイアスを取り除く癖を身に付けるのは、こと食品に関しては特に、基本的かつ重要なリテラシーだ。プロパガンダやアジテーションから決別し、食品に関する冷静な議論と思考を取り戻すことで、豊かな食生活と健康的な人生を全うするためのノウハウを「言葉の正しい理解と使い方」という側面から提供しようとするのが、食品言語学の目指すところだ。

これは、視聴率重視・経済優先の既存メディア群には不可能な芸当だろう。無論、ヒステリックで非科学的な暴露本の類を撲滅させることや、品質の低いコンテンツしか作れないフード/グルメライターの底上げを図ることが公共の福祉に適うはず、という側面も視野に入れている。

食品は一般に、安全性・栄養価・経済性・実用性・嗜好性という見地 から評価され分析されることになるが、健康や生命に影響を与えるという意味において、安全性に勝る価値はない。従って、食品言語学ではこの観点を最も重視する。安全とその先にある個々の安心を実現するための言葉遣いは、他の見地に優先させるべきと考える。

一方で、食品の美味しさを際立たせる役割の美しい日本語も存在する。例えば、食材はそれが出荷し始めた時期には「走り」、大量に生産され栄養価が最も高い時期には「旬(しゅん)」という言葉が割り当てられる。そして、その食材がいよいよ終焉を迎えようとする時期に出荷されるときの「名残(なごり)」こそが、食材の時間的な状況を表す日本語として最も美しいといえよう。

去りゆくもの、散りゆくものに対して、ある種の儚さと慈しみを感じ取る日本人ならではの感性が見事に表現されている。名残の語源は余波(なごり)である。台風一過の後にまだ少し高い波が残っているように、ある事柄が過ぎ去った後にまだその気配が残っていることを指す。最も古いものとしては、「難波潟(なにはがた)潮干の余波よく見てむ家なる妹が待ち問はむため」(万葉集)などにその使われ方を見ることができる。

また、同じような行為に対して別の言葉が割り当てられることで、意味が微妙に異なる場合も多い。「出汁(だし)をとる」は上方(京都)では「出汁をひく」という。「とる」が略奪に近い行為に見えるのに対して、「ひく(=ひかせていただく)」は食材に対する愛情に溢れた言葉といって良いだろう。必要な成分をすべて抽出する場合を「とる」、雑味が出る前に引き上げて必要な分だけを抽出する場合を「ひく」と使い分ける料理人もいる。日本の食文化は、言語のレベルで既に豊かなものになっているのだ。

様々な外国語のノウハウを飲み込みつつ換骨奪胎し、漢字・カタカナ・平仮名、文語・口語、漢語・和語・外来語、独特のスタイル(文体)やレトリック(修辞)、あるいはエクリチュール(écriture:葬式の時には悲しみに包まれた文体が強制的に選択される、といった書き言葉における一種の社会規範のようなもの)など、様々な要素や技法を組み合わせて利用することで、日本語は世界的に孤立した独特の言語になった。結果、表現できるニュアンスの総量が膨大なものとなり、使い方は難しいが美しい言語となったのも事実である。

そしてその言葉が、北は北海道から南は沖縄まで、方言もあるとはいえほぼ完璧に「通じる」ことそれ自体が驚異的な「資本力」である、ということは再認識に値する。日本語を母語(native language)とする人にとっての最大の財産に明確な劣化が始まっているという状況を食い止め、一層の磨きをかけることこそが、食品言語学のもう一つのミッションである。

人工知能(AI)という狂想が程良い具合に落ち着けば、本当の知性(intelligence)や教養(culture)を取り戻そうとする動きが本格化するはずだが、私たち日本人にとって、その時の土台になるものは日本語である。食の安全を実現しようとするメディアは存在するし、言葉に関する専門誌も多い。しかし、このいずれをも統合的に語ろうとするメディア、すなわち食品関連の「言葉」を科学的アプローチと文化的アプローチを織り交ぜつつ統合して論ずるメディアは存在しない。

「名残」と「遺伝子組み替え」を同じ土俵で議論するメディアがあっても良いではないか。「食品言語学」が目指すのはそのような領域である。このメディアを通じて、日本の食の世界の豊かさを国内外に伝え、それが道具として多くの人々に利用されるようになれば本望だ。

最後に、フードテック(food tech)ブームについて警鐘を鳴らしておきたい。2015年に米国で「スマートキッチンサミット(https://www.smartkitchensummit.com)」がスタートしたあたりから、「フードテック」がバズワードになり始めた。米国発の「ITやAIによる食品、あるいは食品業界のイノベーション」と、英国を中心としたバイオテクノロジーで食の問題を解決しようとする動きがミックスされて日本に上陸したものだ。日本のメインプレイヤー(事業者)にはIT業界の出身者が多いので、英国よりは米国に近いムーブメントが主流と考えて良い。しかし、このフードテックはおそらく早晩、倫理的な課題と経済的な課題から萎むことになるはずだ。以下にその理由を述べる。

1)「フードテックでなければ実現できない美味しさ」は確かに存在するが、美味しさに占める味覚の割合が恐ろしく低いということが分かっていない事業者が多いようだ。美味しさの大半は状況(外で食べる、好きな人と食べる、など)と情報(テレビで取り上げられた、など)で構成されている。従って、ここに新勢力としてのフードテックは不要で、「伝統的な食に関する技術」に磨きをかけるほうがむしろコストは低い。切れ味の鋭い包丁を作る技術(あるいはそれを保有する職人)を大事にしたほうが良い、ということだ。

2)「フードテックでフードロスを防ぐ」ことを標榜する企業もあるようだが、フードロスは食品そのものよりは、社会制度設計と外交に起因する問題なので、政治的にしか解決できない。仮に「フードロスをゼロにする技術」が確立し成功したとしたら、それは「全体最適化」が成し遂げられたことを意味するが、一般に全体最適化は経済のレベルをグッと押し下げてしまう(=無駄がない)はずなので、その技術を開発した会社は儲かるかもしれないが、食品業界全体としては負のスパイラルに入ることを意味する。そのような会社を食品業界が支援するわけがないので、当該企業自体が業態転換(創薬や健康食品への転出、など)を迫られることになるだろう。

3)日本国内のマーケットに関しては「日本人の胃袋の総量」が売上の総量に相当する。これは今後、人口減少と高齢化を主な要因として劇的に減っていくことが明白なので、事業者当たりの平均売上も減っていく運命にある(これはフードテック企業に限った話ではない)。一方、海外の貧困問題は、米国・中国・英国のフードテック企業がリードしていくことになるだろう。日本企業には最初から勝ち目はないので、外資の軍門に下る方が賢い。また、食事という行為が「一生かけて行う因果関係が曖昧なまま終わる臨床試験」である以上、新しい技術にチャレンジしたい消費者のユニバースはとても小さい。

ともあれ、フードテックに狼狽える暇があるなら、今こそ日本語という言葉(ことば)の資本力を改めて見直すべきだろう。無限に掘り出せるのに減ることはなく、環境に優しい文化資本なのである。

注1)
『食べる日本語(https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008142481-00)』(毎日新聞社、2006)の著者、早川文代さん(独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 主任研究員)がラジオ番組(https://www4.nhk.or.jp/shinyabin/)で語っていたところによると、食感に関する語彙数は、日本語が445、フランス語が235、英語は100程度だという。