1990年代に吹き荒れたポストモダン論とその衰退

1990年代、筆者がロンドン滞在中、大型学術系書店の社会科学コーナーで目にしたのは、山積みになった、いわゆるポストモダン論批判の本であった。

著者ハーベイ(D.Harvey)は著名なマルクス主義地理学者で、当時猛威を振るっていたポストモダン論に苛立ちつつ、よくある一過性の知的流行にしてはなかなかしぶといがそれは何故なのか、という問いからその議論を始めている。彼の結論は (マルクス主義者として当然だが)、これは従来とは異なる資本蓄積の形態から生じる現象で、大きな下部構造の変化がその根底にあるために、この議論は一過性の流行のようにはなかなか消えないのだとした。

ポストモダン論は、一時期本邦も含めた人文社会系を中心に大いに流行したが、その用語自体は建築学上のモダニズム批判として始まり、それが社会の進歩といった「大きな物語」の終焉という形で一般化され、さらに別の潮流とも混じり合って大きく膨れ上がった。

ある英語の解説書では、源流として、70年代に流行ったポスト産業社会論、すなわち従来の工業中心の時代からサービス産業や知識産業のような新形態が主流になるという話、あるいはポスト構造主義、すなわちこれも戦後大流行した構造主義や記号論に対する批判、などが挙げられていた。

文化人類学では、リアリズム的民族誌がモダンで、それに対してポストモダンとは様々な文体上のひねりのことだという、やや不可解な議論を主張するものがいた。更にある会議で、観光はポストモダンな現象だと言い張る観光人類学者に対して、他の参加者が大いに反論して会議が紛糾したという記憶もある。

フランスの著名な哲学者が、あなたのポストモダン論は、と問われてその意味が分からず怪訝そうな顔をしたとか、これまた著名なドイツのシステム論社会学者が、ポストモダン論といったものは単なる商業上のラベルに過ぎないと反撃した、といった逸話を読んだこともある。流行とはしょせんそんなものである。

※本稿は、モダンタイムズ(https://www.moderntimes.tv/)に掲載された記事の抜粋です(この記事の全文を読む(https://www.moderntimes.tv/articles/20220928-01po/))。
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