日本のプロ野球の応援の定番といえば、トランペットやメガホンが思い浮かぶ人が多いだろう。そしてジェット風船も取り入れる球団が増えた。実はこの3つは広島発祥である。ある意味で。カープファンが「応援文化」を盛り上げてきたともいえる。
 応援以外にも球団運営、チーム戦術等も含めれば、まだまだ「カープ発祥」のものは数多く存在する。それらは、資金難にあえぎ、地方球団ゆえにさまざまなハードルを乗り越える必要があったカープならではのアイデアに満ちあふれている。


◎球界ではじめてユニフォームに広告を入れた、貧乏球団・広島

 広島東洋カープの歴史は悲しいかな、貧困の歴史でもある。特に球団創設後まもなくの頃は常に資金難にあえぎ、選手への給料の未払いも当たり前。当時の石本秀一監督が自ら資金援助を訴え続け、なんとか球団を存続させている状況だった。

 この危機を救ったものとして有名なのが、広島市民による草の根運動である「樽募金」。しかし、球団側も無策ではなく、さまざまな金策に奮闘していた。その中のひとつが、球界初のユニフォーム広告の採用だ。

 1952(昭和27)年、殺虫剤のフマキラーを販売する地元広島の企業、大下回春堂の社長・大下俊晴が球団取締役だった関係で、資金援助の見返りとしてフマキラーのロゴをユニフォークの肩口に入れたのだ。現在のマツダスタジアムにも同社の看板広告があり、長年にわたってチームを支え続けてくれるありがたい存在といえるだろう。


◎球界を驚かせた「〇〇シフト」を考案した男

 金や戦力がなければ、アイデア勝負。これは球団運営に限らず、チーム戦術においても広島に求められることだった。そんなチーム戦術の中でも特に奇抜で球界全体を驚かせたのが、1964(昭和39)年に考案された「王シフト」だろう。

 王貞治(元巨人)封じに常に苦慮していた広島は、地元企業・東洋工業(現マツダ)の所有する電子計算機を使って、王のデビュー戦以来の全打席の打球方向を数値化。当時の白石勝巳監督は、その結果に基づいて一塁手を一塁線際へ、二塁手をだいぶ一塁側へ、遊撃手は二遊間へ、三塁手はもともと遊撃手の守備位置へ移動させた。外野手も同じくそれぞれ右方向へ移動。フィールドの右半分に野手が6人という思い切ったシフトを考えた。右翼方向にきた打球を捕りやすくするとともに、流し打ちを意識させることで、王選手の「一本足打法」のリズムを狂わせる狙いがあったという。

 ところが、王はこのシフトを物ともせず、「空中にシフトはない」と、思いっきり引っ張ってライトスタンドにホームランを打ってみせた。結果的にこの年、当時のプロ野球新記録となるシーズン55本塁打を達成することになる。

 ただ、この極端なシフトは他球団も大きな影響を受け、翌年以降、マネするチームが続出。現在に続く、強打者の打撃成績を分析し、守備位置を変更させる「打者専用シフト」が生まれるキッカケとなったのだ。


◎広島を「戦う赤い軍団」に変えた、史上初の外国人監督

 資金難の影響もあって、球団創設からずっと最下位が指定席だった広島。その広島が大きく生まれ変わったのが球団創設から25年がたった1975(昭和50)年のことだった。前年から打撃コーチを務めていたジョー・ルーツを史上初の外国人監督として起用したことが大きなキッカケだった。

 まず、ルーツがしたことは、前年まで3年連続最下位だったチームを「戦う集団」に変えること。燃える闘志を表す意味をこめて帽子・ヘルメットの色が紺色から赤に変えたのだ。ここに、今に続く「赤ヘル軍団」が誕生した(ただし、採用当時は「赤ヘル軍団」とは呼ばれず、むしろ奇異の目で見られることが多かったという)。

 残念ながらルーツ自身は開幕早々の4月27日、対阪神戦における判定を巡って猛抗議。このことがキッカケとなり、4月30日に辞任してしまう。だが、ルーツの戦う意志はチームに宿り、この年、球団初のセ・リーグ優勝を果たすことになったのだ。