◎KO後の本人に直撃

 だが、状況は終盤から暗転する。7回に国際武道大の左打者・篠原優太にチェンジアップを、さらに9回には右打者・服部創太にスライダーを、それぞれスタンドまで運ばれ、この3ラン2発で同点に追いつかれ降板。チームはその裏にサヨナラ勝ちを決めたものの、試合後に話を、ましてや初対面で野球には関係のない子役時代の話を聞くには、勇気がいる状況になってしまった。

 しかし、こちらの勝手な事情だが都心から離れた市原まで来ただけに、肝心なことを聞かずに帰るわけにはいかない。不安な気持ちのまま、米谷に初接触を試みた。

「今日で5勝目だったはずなんですけど…あの2球がすべてっすよ」

 悔しさをにじませながらも声のトーンは思いのほか軽い。これはチャンス。

「小さい頃は子役もやってたそうだけど…」

 そう勇気を持って切り出すと、米谷はふっと吹き出し、

「まあ、昔ちょろっと」

 とあの空耳アワーで見た笑顔の面影をそのまま残し、表情を崩した。

「これはイケる!」と確信した私は彼の野球歴、そして役者歴など深く聞いていったのだった。

◎菅原文太も認める才能

 姉の友梨さんが芸能活動に興味を持ったことがきっかけで、姉についていくような形で芸能活動を始めたという米谷。物心ついた時には、役者業、そして野球をやっていた。

 父・菊夫さん、母・貢美さんから後に聞いた話によると、その演技力は大御所俳優・菅原文太からも褒められるなど高いポテンシャルを秘めていたという。またそれと同時に野球にも熱中し(当時のプロフィールには「特技・野球」と書かれている)、地元の江戸川区大会では優秀選手として表彰されるなど、野球でも顕著な成績を残し始めた。

 ただ当時は、野球と役者業が被った場合は役者業を優先。そのため、エースながら試合に欠場する日もあったという。何より野球が好きだった米谷は「(役者業を)早くやめたかったのですが、なかなかマネージャーさんがやめさせてくれなくて」と当時を苦笑いで振り返る。事務所としてもただで手放すのには惜しい素材だったのだろう。

 だが野球への強い決意を持つ米谷は、中学1年夏に撮影が行われた『バッテリー』で役者業引退を決め、中学も学区外ではあったが、強豪・江戸川区立上一色中学校へ進学を希望。中学軟式野球の名将・西尾弘幸監督の門を叩いた。

◎中学でサイドスロー転向

 中学1年夏の役者業引退を機に、野球一本に打ち込み始めた米谷にもう1つの転機が訪れる。それが「サイドスロー転向」だ。

 体が小さく球速も遅かった米谷だが、西尾監督は米谷の柔らかい体の使い方に目をつけ、サイドスロー転向を提案。それがうまくはまった米谷は、最後の夏こそ故障で控えに回ることになるも、春の大会ではエースとして登板。卒業後の進路をかつて東京大野球部で監督を務めていた三角裕監督が指揮を執る駿台学園に決めた。そこで西尾監督と三角監督は「体ができてくれば面白い」と口を揃えたという。