阪急ブレーブスのマスコット「ブレービー」、そしてオリックス・ブルーウェーブのマスコット「ネッピー」の“中の人”として活躍し、マスコット界に革命をもたらした島野修。彼が歩んだ波乱のマスコット人生を、その生き方に影響を与えた言葉とともに振り返っていく。

◎「ドラフト1位の島野 今はピエロ」

 1981年4月11日、阪急ブレーブスのマスコット「ブレービー」としての歩みを始めた島野修。その仕事は試合中だけでなく、試合終了後にビデオでその日のパフォーマンスをチェックし、どうすればもっと球場が盛り上がるのかを考える、忙しい毎日だった。

 それほど真剣にマスコットの仕事に取り組んでも、知人からは「プロで10年もやった、しかも巨人にドラフト1位で入団した選手のする仕事じゃない」と、認めてもらえない日々が続いた。それでも自分の選択を信じて「ブレービー」を演じ続けて1年が経った頃、あるスポーツ紙がこんな見出しで島野のことを報じた。

「元巨人 ドラフト1位の島野 今はピエロ」

 当初、ブレービーの中の人間が誰かは非公開にされていた。だからこそ、島野もパフォーマンスに集中することができたのだが、この新聞報道以降、球場ではブレービーに対して、

「ドラフト1位が泣くぞ。恥ずかしくないのか」
「おーい島野、そんな情けないことよくやってられるな」

 といったヤジが飛ぶようになった。

 今でこそ球団マスコットの存在は、12球団どのチームでも、なくてはならないものになっている。だが、当時、パフォーマンスをするマスコットの姿は珍しく、それゆえ、心ないヤジが島野を苦しめたのだ。

 島野がマスコットになって2年目の夏、この頃にはもう「今年いっぱいで辞めよう」と決意していたという。

◎「ブレービー、めっちゃおもろかったなぁ」

 1982年8月のある夜のこと。試合が終わり、西宮球場そばの居酒屋で陰鬱としながら酒を飲んでいた島野の耳に、隣の席に座っていた親子からこんな会話が漏れ聞こえてきた。

「ブレービー、めっちゃおもろかったなぁ。また、見に行こうな、お父ちゃん」

 その少年の言葉が、島野の決意を翻した。

「ふつうは阪急の試合が面白かったと言うと思うんです。ところがブレービーが面白かったと言った。とても落ち込んでいたときだったので、一人でも俺を見に来てくれているお客さんがいるんだと、自分に言い聞かせた。そのとき目が覚めたように我に返ったんです」(澤宮優『ドラフト1位』より、島野修インタビュー)

 「元選手」としてのプライドから真の意味で解放された島野。ヤジも気にならなくなり、さらにパフォーマンスに磨きがかかったことで、ブレービーの人気はさらに高まっていった。

◎「島野君のおかげで100万人、行ったよ」

 「元選手」としてのプライドに左右されなくなっても、「元選手」であることは、他球団のマスコットには真似ができない、ブレービーと島野にとっての絶対的なアドバンテージだった。なぜなら、旧知の選手たち、そして時には審判団との絶妙な掛け合いによって球場を沸かせることができたからだ。判定に不満があれば、ファンを代表して審判団に詰め寄って「抗議のふり」をするだけで、場の空気が変わって、反撃のキッカケになることもあった。

 また、助っ人外国人・ブーマーがホームランを打った際には、誰よりも早くハイタッチを交わすのがお約束だった。だが、あるとき、ブーマーの手が勢い余ってブレービーの頭をはたき、着ぐるみの頭部が外れて、島野の顔があらわになったことがあった。まさかのハプニングに、球場に詰めかけたファン、特に子どもたちが喜んだという。

「僕がブレービーをやって一番嬉しかったのは、子供が喜ぶ姿です。大人は野球を見に来ますから、マスコットを見るわけじゃない。子供は野球よりもマスコットを見るわけです。そのときはああよかったと思いました」(澤宮優『ドラフト1位』より、島野修インタビュー)

 島野の努力もあって、1986年には球団史上初めて観客動員100万人を突破。球団関係者から「島野君のおかげで100万人、行ったよ」と声をかけてもらえるほど、ブレービーは確固たる地位を築きあげていた。

 だが、1988年秋、島野にとって、またもや転機が訪れることになる。阪急が身売りされ、オリックスへの球団が譲渡されたからだ。

(次回に続く)
※参考文献
『それゆけネッピー! プロ野球マスコットにかけたゆめ』(花木聡/くもん出版)
『ドラフト1位 九人の光と影』(澤宮優/河出文庫)
(文=オグマナオト)