【ソウル聯合ニュース】ロッテグループ創業者の辛格浩(シン・ギョクホ、日本名:重光武雄)氏が19日、ソウル市内の病院で死去した。

 第2次世界大戦直後の廃墟の中でガムを売り始めてからの70年間で、韓国5位の財閥にロッテを育て上げた。日本でのせっけんやガム製造事業で得た資金を韓国に投資し、製菓、観光、流通、免税店ビジネスなどを成功させた現代韓国で最高の経営者の一人。だが、晩年は二人の息子の激しいグループ経営権争いを目の当たりにし、精神鑑定まで受けるなど苦難に見舞われた。

◇日本で5万円借りて起業 せっけんやガム販売で成功

 辛氏は1922年10月4日(戸籍上の生年月日で、実際は1921年11月3日)、日本の統治下にあった朝鮮半島の南東部、慶尚南道・蔚山(現蔚山市)の農家に5男5女の長子として生まれた。日本の激しい弾圧の中でも教育熱心な父親のおかげで彦陽小学校、蔚山農業専門学校を卒業し、道立種畜場に就職したが、自身と家族のためもっと大きなことをしたいと1年で辞め、41年に日本行きの船に乗った。

 東京では牛乳・新聞配達をしながら夜は進学を目指して神田の予備校に通う苦学生だったが、信用を得て注文が増えると自分も配達員でありながらほかの配達員を雇うほど、早くから卓越した経営能力を見せた。

 それを見た日本人投資家から当時としては多額の5万円を借り、切削油の製造に乗り出したものの、工場が2度も米軍の空襲を受けるという挫折を味わった。

 46年3月に早稲田高等工学校を卒業すると、東京に「ひかり特殊化学研究所」を設立し、せっけん、ポマード、クリームなどの油脂製品を製造した。敗戦後、日用品不足が深刻だった日本で辛氏のせっけんは飛ぶように売れ、5万円の借金を1年もたたずに返済できるほどの利益を得た。

 47年4月、辛氏はロッテのルーツで象徴でもあるガムに目を付けた。米国製品をまねた粗悪品があふれていた中、南米産天然樹脂で当時としては最高レベルのガムを作り出し、大ヒットさせた。この成功を基に48年6月、資本金100万円、従業員10人の株式会社ロッテを設立した。

 社名の「ロッテ」は苦学生時代に読んだゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」のヒロイン、シャルロッテにちなむ。自社製品が彼女のように愛される存在であってほしいという思いを込めた。辛氏は後日「ロッテという新鮮なイメージを社名や商品名に採用した私の決定は、私の一生で最大の収穫であり、すばらしいアイデアだった」と振り返っている。

 ロッテは当時、日本のガム市場で7割のシェアを握り、チョコレート(63年)、キャンディー(69年)、アイスクリーム(72年)、ビスケット(76年)などを次々に発売して総合菓子メーカーとしての地位を確立。ガムの会社として誕生してから40年もたたず、80年代半ばにはすでに日本でロッテ商事、ロッテ不動産、ロッテ電子工業、プロ野球団・ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、ロッテリアなどを抱える財閥企業に成長していた。

◇韓国で積極的な事業展開 ワールドタワー完成で宿願果たす

 日本での事業がある程度安定すると、母国の韓国に目を向けた。59年から韓国にロッテなどを設立しガムやキャンディー、ビスケット、パンなどを製造していたが、経営は韓国の弟たちに全面的に任せていた。

 辛氏が韓国での経営に本格的に乗り出したのは、65年の韓日国交正常化、66年の在日韓国人の法的地位を定めた両国協定の発効により、韓国への投資の道が開かれてからだ。

 だがこのとき、日本で得た資金を韓国に投資する過程にL投資会社などが介入したことで、現在問題と指摘されるロッテの「日本企業」論争などの発端になったのも事実だ。

 辛氏は韓国で、日本でのビジネスと同様にまず製菓業に投資し、67年4月に資本金3000万ウォンでロッテ製菓株式会社を設立、高品質ガムを販売し韓国でもガムのメーカーとしての名声を高めた。

 ヒット商品を連発し、72年以降は各種ビスケット商品も発売。ロッテ製菓は73年、当時の菓子メーカーとしては珍しかった株式公開を決定し、74年には年間売上高が100億ウォンを超えた。74年に七星韓美飲料、77年には三岡産業を買収、それぞれロッテ七星飲料、ロッテ三岡としてグループ化し、韓国最大の食品会社に発展した。

 辛氏は食品のほか、観光と流通を韓国に必要な基盤事業と見なし、これら分野に積極的に投資した。ことあるごとに「天然資源が貧弱なわが国は何としても観光立国を成し遂げなければならない」と信念を語った。

 その信念が初めて実を結んだのが、73年にオープンしたソウル・小公洞のロッテホテルだ。地下3階、地上38階、客室約1000室の同ホテルは当時、韓国最高層の建物だった。ホテルの建設には京釜高速道路の建設費にほぼ匹敵する1億5000万ドルという巨額が投じられた。

 流通分野でも時代を先取りした投資を行った。79年に小公洞にオープンしたロッテ百貨店の規模(地下1階〜地上7階)は当時の百貨店の2〜3倍で、質の面でも先進国の店舗と張り合うことができるほぼ唯一の百貨店だった。

 70年代後半には現在のロッテ建設の前身となる平和建業、ロッテケミカルの前身となる湖南石油化学を買収し、建設と石油化学産業にも参入した。

 食品、観光、流通、建設、化学などの分野にビジネスを広げたロッテグループは80年代に急成長し、89年には当時、世界最大の屋内テーマパークとしてギネス世界記録に認定されたロッテワールドをソウル・蚕室にオープンさせた。

 90年代に入ってからも辛氏はコンビニエンスストアやIT(情報技術)、スーパー、映画館、インターネット通販、クレジットカードなどの分野に事業を広げ、ロッテを韓国財界5位のグループに押し上げた。

 「いつまでも外国人客に古宮ばかり見せているわけにはいかない。世界的な名所が必要だ」と周囲の反対を押し切って2010年11月に蚕室に着工した韓国最高層ビル、ロッテワールドタワー(123階建て、高さ555メートル)は17年4月に正式に開業した。宿願を果たした辛氏は18年1月、執務室兼住居を小公洞のロッテホテルからロッテワールドタワーの49階に移した。

◇息子同士が経営権争い 晩年に苦難

 同氏は11年2月、次男の辛東彬(シン・ドンビン、日本名:重光昭夫)氏を韓国ロッテグループ会長に任命し、実質的に経営の一線から退いた。東彬氏はハイマート(12年)、KTレンタル(15年)、ニューヨークパレスホテル(15年)など大型のM&A(合併・買収)を次々に成功させ、積極的にロッテの将来のビジネスを探っている。

 大きな業績を残した辛格浩氏だが、ここ数年は東彬氏と長男の辛東主(シン・ドンジュ、日本名:重光宏之)氏の経営権争いに苦しんだ。

 15年7月15日、東彬氏がロッテグループの日本事業の持ち株会社であるロッテホールディングス(HD)の取締役会で代表取締役副会長に選任され、韓国と日本のロッテを率いる「ワントップ」の座に就くと、同月27日にロッテHD前副会長の東主氏が父の辛格浩氏を担ぎ上げ、東彬氏をロッテHDの取締役から解任する「クーデター」を試みる。自らの意思だったかどうかはともかく、長男の側についた辛格浩氏はこの一件でロッテHDの代表取締役会長を解任される屈辱を味わった。

 その後の兄弟による経営権争いで辛格浩氏の判断力など精神健康状態が争点に浮上し、16年8月に限定後見人が指定された。事務処理能力が不十分だとして裁判所が法的能力を制限したのだ。

 辛格浩氏は17年8月のグループ会社ロッテアルミニウムの取締役退任をもってグループ取締役から全て退き、事実上、名前だけの総括会長となった。同12月には横領や背任の罪で懲役4年の実刑判決を受けたが、高齢との理由で身柄拘束は免れた。

 だが、こうした晩年の苦難は自ら招いたとも言われる。韓国、日本のロッテのトップに就き経営権を掌握するにはロッテHDの大株主である創業家の資産管理会社(光潤社)、従業員持ち株会、役員持ち株会・関係者のうち少なくとも二つから支持を得なければならないところを、二人の息子に遺産のごとく譲り、どちらも引けない「終わりなき争い」を引き起こしたとの指摘だ。

 韓国の財界関係者は「70年代、未熟だった韓国の製菓、観光、流通業界を世界的水準に引き上げた故人の業績はどんなに高く評価してもしすぎることはない」とする一方、「仕事への情熱が行き過ぎ、適切な後継者選びのタイミングを逃したことが玉にきずだ」と無念さをにじませた。