「ここで〇〇したら呪われる」異様な説得力が話題の注意看板
Amazon 「押してダメなら引いてみろ」とはよく言ったもの。時には力技でなく、工夫に頼った方が物事は解決するのだ。
さてX上では、愛知県某所で発見された「ポイ捨て禁止」の看板が「怖すぎる」と、話題になっています。
■看板の注意書き、あまりに怖すぎる…
ことの発端は、Xユーザー・しゅゔぁるさんが投稿した1件のポスト。「地味に、とっても怖い」という意味深な1文が綴られた投稿には、「ここへ駐車の皆様へ」と題した看板の写真が添えられている。
どうやらポイ捨て等の迷惑行為に対する、注意喚起を目的に設置された看板のようなのだが…。
その内容は「この付近一体は設楽原決戦で多くの將(将)兵の血が流れた遺恨の地です。死者の霊に背くようなゴミ捨てや排尿便をして交通事故などに遭遇しないように、各自気をつけてください」というものであった。
こちらの光景は瞬く間に話題となり、Xユーザーからは「説得力ある看板」「とても良い。こんなこと書かれてたら、ゴミ捨てる気起こらんだろ」「達筆で、より重みを感じる」「『ここで◯◯しないでください』より、効果ありそう」など、称賛の声が相次いでいる。
■「長篠の戦い」って何だっけ?
ポスト投稿主・しゅゔぁるさんに話を聞いたところ、当該の看板は愛知県新城市の長篠堰堤、花の木公園の近くにある「馬場美濃守討死之地」の碑付近で発見したものと判明。
撮影時の詳細について、しゅゔぁるさんは「昼夜問わずよく通行する道でもあり、看板が存在することだけは知っていました。手書き看板ということもあり、書いた方の意思が伝わるような気がする『味のある字』だと思い、写真に収めました」と、振り返っている。
そこで今回は、「設楽原決戦で多くの將兵の血が流れた遺恨の地」の詳細をめぐり、「新城市設楽原歴史資料館」に話を聞いてみることに。
すると、長篠城をめぐる戦いは戦国時代に3回行われたが、通常「長篠の戦い」という場合は、1575年(天正3年)5月の戦いを指すことが判明。さらに、この戦いは前の部分の「長篠城の攻防」と、後の部分の「設楽原の決戦」の2つに分けられると言うのだ。
■1万5千 vs. 500
前半部分の長篠城の攻防について、資料館の担当者は「甲斐の武田軍にとって長篠城は信州の山間を通って三河の平地に出るところにあり、やがて京都を臨むためには、とても大事な拠点となる城と考えられていました。それに、1571年(元亀2年)には一旦武田方に属したものの、2年後のには徳川方に落ちた城でもあります。それを奪い返そうとして武田勝頼は1万5千もの大軍を率いて、長篠城を取り囲みました」と、説明する。
5月8日から毎日のように攻撃が仕掛けられるも、長篠城主・奥平貞昌以下500の城兵は懸命にこれを防衛。しかし少人数で城を守るにも限界があるため、貞昌は救援の使者として鳥居強右衛門勝商を岡崎へ向かわせる。
徳川家康はその報告を受け取ると、かねてからの約束通り織田信長の助けを借りて設楽原へ出陣。長篠城救援の気構えを見せた。
そしてここからが、長篠の戦いの「本番」である…。
■わずか10時間で1万6千人が戦死
後半の「設楽原の戦い」において、設楽原へ到着した織田・徳川連合軍の総数は約3万8千。隠し持った3千挺の鉄砲を撃ちかけ、早々に武田軍を壊滅させようと計画していた。
しかし、相手は天下無敵と謳われた武田軍。戦闘時間は1日、たった10時間足らずであったにも関わらず、武田軍1万、連合軍6千もの命が失われる、文字通りの「死闘」が繰り広げられたのだ。
資料館の担当者は「設楽原にすむ村人たちは、戦いが行われていた間、じっと息を潜めるような思いで、小屋久保に避難していました。やがて戦いが終わり、家に帰ってから行ったのは、おびただしい死者を懇ろに葬ることでした。その場所は今も慰霊の丘として知られる信玄塚で、毎年お盆に行われる『火おんどり』は死者を供養するための火祭りで、400年以上に渡って受け伝えられています」と、説明している。
このような歴史がある新城市でポイ捨てなどしたら、確かに呪いの一つや二つは、覚悟しなければならないだろう。
しらべぇが伝えています。
#愛知県 #新城市 #歴史
— しゅゔぁる (@RoOqHywdq31S1dp) July 16, 2025
地味に、とっても怖い🐴💦 pic.twitter.com/cWShl1EHuw
編集者:いまトピ編集部
