田淵幸一、屈辱のトレード

【阪神球団創設90周年ベンチ裏事件簿】第十一弾
阪神球団創設90周年。プロ野球界で長らく巨人と人気を二分してきた“西の雄”だ。その阪神の番記者として陰に陽に取材してきたのが、元スポーツニッポンの吉見健明氏である。
ミスタータイガース・田淵幸一が西武へトレードされたのは、47年前の1978年シーズンオフ。吉見氏は学生時代から田淵と苦楽を共にしてきた親友で、当時はスポーツ紙のトップ屋記者だった。吉見氏がトレードの舞台裏を初めて明かす。
阪神の歴史の中で現役時代に「ミスタータイガース」と呼ばれた選手は数えるほどしかいない。
初代・藤村富美男、2代目・村山実、3代目・田淵幸一、4代目・掛布雅之の4人だ。
このうちトレード(1978年)で他球団に放出されたのは田淵だけである。
そのため、いまだに一部のファンの間では「田淵はミスターではない」という論争があるほど。ただ、阪神時代の田淵は間違いなく「ミスタータイガース」であった。
東京六大学のスター選手としてドラフト1位で阪神に入団し、1969年の1年目からレギュラーに定着。背番号と同じ22本の本塁打を放って新人王に輝いた。
その後も死球禍を乗り越え、王貞治を抑えてホームラン王を取るなど大活躍した。江夏豊とのコンビは黄金バッテリーとして阪神の看板になっていた。
それだけに田淵がトレードで放出されたときの衝撃度は強烈だったが、トレードの予兆はあった。
’78年の阪神は球団創設史上初の最下位に沈んでおり、選手たちとさまざまな確執を報じられた監督の後藤次男も解任された。
新任の小津正次郎球団社長が大胆なチーム改革を断行することは明らかだった。
この頃、筆者は巨人が引き起こした「江川卓の空白の一日事件」の取材に掛かりきりになっており、関西を離れて江川の動向を追い続けていた。
最終的にドラフト後、初となる江川本人のコメントを独占スクープすることに成功したのはささやかな自慢だ。
意気揚々と帰阪し、編集局長賞の賞金を握って北新地で祝杯を挙げていたまさにその夜、田淵のトレードの一報が舞い込んできた。どうやら深夜になって田淵が球団からホテル阪神に呼び出されたらしい。
急いで駆けつけると、ホテルには他紙の阪神担当記者たちが全社勢揃いで田淵が出てくるのを待ち構えていた。
ようやく記者団の前に姿を現した田淵は「西武へ行けと言われた。それもいきなりだ。人をバカにしている。これが10年間、阪神でやってきた者への仕打ちなのか。情けないよ」と、トレード通告されたことを明かした。
日付も変わった11月16日午前3時過ぎのことだった。
江川問題を追いかけていた筆者は、シーズン中は南海担当だったこともあり、田淵トレードの取材指令は出ていなかった。
それでもこの緊急事態に黙ってはいられない。関西での阪神のニュースバリューは絶大であり、まして田淵は高校時代からの親友でもある。筆者はホテルでの会見を待たず西宮(兵庫県)にあった田淵の自宅マンションに向かい、エレベーターの前で帰りを待った。
帰宅した田淵の顔は真っ赤で筆者の顔を見ても無言のままだった。筆者も黙って田淵と並んで部屋に入った。
しばらくして田淵はようやく口を開いたが、蚊の鳴くような声で「悔しい!」とつぶやくのがやっとだった。
「ダルマ(田淵は筆者のことをアダ名で呼んでいた)、西武に行けと言われたよ。『根本(陸夫)さんは法政大の先輩だし、ライオンズでしっかり勉強してこい。広瀬さんや西本さんよりお前を育ててくれる』だと。納得いかなかったが、『もう決まったことだから』と問答無用だったよ」
少し落ち着くと田淵は交渉の様子を語り始めた。
広瀬叔功は当時の南海ホークス、西本幸雄は近鉄バファローズの監督だ。西武以外にこれら関西の球団からもトレード話がきていたということだった。
怒りと哀しさの入り交じった口調は最後まで変わらなかったが、それも当然だろう。
もともと、田淵はドラフトで巨人入りを希望していたところを阪神が強引に1位指名している。
事前に挨拶など一度もなく、指名された瞬間、田淵は「金づちで頭を殴られたようなショックを受けた」と言う。
それでも悩んだ末、阪神に骨を埋める決意をして入団した経緯がある。
筆者は「西武で意地をみせるしかない」と励ましたが、田淵は最後まで上の空。床に就いても眠れなかったようだ。翌日から田淵のトレード取材に入ったが、疑問だったのは、なぜミスタータイガースの田淵が放出されたのかという点だ。戦力面でも人気面でも田淵ほどの選手はそうはいない。
確かに、当時の田淵にはチーム内の人間関係や成績が多少落ちたといったマイナス面はあった。
また、阪神が次期監督を要請していたドン・ブレイザーが『田淵、藤田平、池辺巖はいらない』と監督に就任する条件を付けていたことも分かっている。
ただ、最大の理由は阪神フロントの根っこに、チームの強化より商売の論理を優先する体質があったからだと筆者は思っている。
事実、この2年前の’76年1月にはエースの江夏もトレードに出されている。
このとき、「選手が活躍すると年俸が高くなり球団経営を圧迫するため、阪神では実績のある選手ほど放出されやすくなる」という話があったが、田淵の場合もまさにその典型だった。
トレード発表の1週間後、筆者は阪神の小津球団社長宅を訪ねた。トレードについてもう一つ気になっていた「なぜトレード通告が深夜だったのか?」という疑問を直撃するためだが、小津球団社長の答えは意外なものだった。
「吉見くん、自分の胸に手を当てて考えれば、すぐ分かるだろ」
一瞬、間を置き筆者は「あっ」と思い当たった。小津球団社長は筆者と田淵が親友であることを当然ながら知っていた。発表前に筆者に情報が伝わったらどうなるか。
つまり、スポニチの独占スクープにさせないため、朝刊紙の締め切り時間が過ぎた深夜に呼び出し、トレードを通告したのだ。
そしてもう一つ。取材を続ける中で田淵が西武にトレードに出された別の理由もあることが分かった。これは恐らく田淵本人も知らない話だ。
それは田淵の妻・博子さん(’81年離婚)の影響だ。もちろん、野村克也に対するサッチーのような関係ではない。問題があったのは田淵の方だ。
ハッキリ言えば、田淵は昔から女性にモテモテで、私生活がスキャンダルメーカーだったためだ。
実際、阪神入団時から関係のあった元宝塚の大物女優・Oと西宮のマンションで密会したり、一般女性・Kとの認知騒動が週刊誌に報じられたこともある。
筆者は問題が起きるたびに田淵の父親から「なんとか別れさせろ」「2人の仲を潰してくれ」と頼まれていた。こうした浮気相手との関係は博子さんの耳にも入っていた。
では、なぜこうした田淵のプライベートが球団にも伝わっていたのか。
実は当時、田淵と博子さんは甲子園球場の近くにあったH歯科に通っており、そこのH歯科医師と家族ぐるみの付き合いをしていた。
田淵の浮気に悩んでいた博子さんはH歯科医師に相談していた。
しかも、このH歯科には小津球団社長も通院していたため、田淵のプライベートは球団側に筒抜けだったのだ。
当然、阪神本社の田淵に対する印象は限りなく悪く、トレードやむなしとなったわけだ。
このルートで田淵のトレード話を聞いた博子さんはこう要望したという。
「トレードされるなら、関東の球団がいい」
これが小津球団社長にも伝わり、いくつかあったトレード候補の中から西武ライオンズに決まったのだ。筆者はこの話を博子さんから直接聞いている。
ちなみに、筆者は田淵と博子さんの結婚と離婚をスッパ抜いている。いずれにしても、田淵にとっては屈辱のトレードだったことは間違いない。
ただ、西武では監督の広岡達朗の下、主軸として初の日本一(’82年)、同連覇(’83年)を達成している。
そして’84年、田淵は現役を引退した。阪神で優勝経験がなかった田淵にとって、放出された意地はキッチリ晴らせたはずだ、と週刊実話WEBが報じた。
編集者:いまトピ編集部