「人生いろいろ、男もいろいろ」――軽妙なテンポながら、意味深い歌詞が続きます。「女だっていろいろ 咲き乱れるの」。まさに、島倉千代子さん(1938〜2013)の人生を歌い上げたかのような名曲「人生いろいろ」。歌詞の主人公は女性ですが、自身の人生に被せて聴き入ってしまう男性も多いそうです。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今週は世代を超えて愛されたお千代さんの人生に迫ります。

夢に出てきた島倉さん

「昭和」という激動の時代をひたむきに誠実に生きた。豊かな愛とぬくもりで私たちを包み込んだ人でもあった。

「東京だョおっ母さん」「人生いろいろ」など、戦後の歌謡界で多くのヒットを飛ばした歌手・島倉千代子さん(本名・同じ)である。艶やかな着物姿のイメージが強いが、自宅では男モノのTシャツとジーパンで過ごすことが多かったという。酒は全く飲めず、仕事以外に外出することも少なかったそうだ。「お千代さん」という愛称がまさにぴったりな庶民派スターだった。

 肝臓がんのため75歳で旅立ったのは2013年11月。早いもので11年になる。訃報が駆けめぐったとき、日本中のあちこちのスナックでホステスたちが客と一緒に「♪いろいろ〜」。島倉さんの代表曲「人生いろいろ」を合唱していたのが懐かしい。

 あのころ私は不思議な夢を見た。島倉さんと一緒に旅行をしているのである。突然雨が降り、ずぶ濡れになる。近くにいる人からタオルを借りると、ご本人だということが分かってしまい大騒ぎになるという展開。

 夢なので脈絡のない話だが、ふと目が覚めると、ベッド脇のラジオがつけっぱなしになっていた。NHKの「ラジオ深夜便」で、ちょうど島倉さんの歌が流れていた。午前3時台のコーナー「にっぽんの歌こころの歌」である。

 ラジオをつけっぱなしにして寝ることは多いのだが、偶然とはいえ不思議なことである。

 実は島倉さんが亡くなる1年前、島倉さんへの取材が突然キャンセルになったことがあった。

 2012年10月――。私は朝日新聞の夕刊1面企画「ニッポン人脈記」で、「演歌よ」と題した連載を担当していた。さまざまな歌手に取材を申し込んだが、「日本の歌謡史を代表する歌手」ということで島倉さんへの取材は欠かせないものだった。当初は「大丈夫です」という話だったが、マネジャーから断りの電話があった。

 詳しい理由は教えてもらえなかったが、「体調が最悪で声も出なかったのです」と所属するレコード会社の担当者がのちに教えてくれた。「取材にきちんと応じられないのは失礼だと思い、断ったのではないでしょうか」と担当者は説明した。

哀調を帯びたラテン音楽のような味わい

 島倉さんの経歴について簡単に触れたい。

 1938年3月、東京都品川区生まれ。高校在学中に日本コロムビアの歌謡コンクールで優勝し、55年、「この世の花」でデビュー。57年には「東京だョおっ母さん」が大ヒットし、NHK紅白歌合戦に初出場した。60年には美空ひばりさん(1937〜1989)と一緒に「つばなの小径(美空)/白い小ゆびの歌(島倉)」を発表。89年にひばりさんが亡くなるまで、本当の姉妹のような交友が続いた。

「からたち日記」などで紅白には86年まで30年連続で出場した。翌87年に出した「人生いろいろ」が大ヒットし、日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。可憐な歌声は若い世代にも人気を呼び、88年に再び紅白に出場した。紅白出場は計35回にのぼる。99年には紫綬褒章を受けた。

 とまあ、華やかな経歴である。生涯に発表した曲は2000。これほど長く芸能活動を続けた歌手は、ひばりさん亡き後、島倉さんしかいなかった。ひばりさんが太陽なら、島倉さんは月。静かに見えるが、照らすところは照らす。奥ゆかしそうに見えつつ、芯は強い。そんな人だった。

 震えるような歌声が叙情的な世界を醸し出した。石川県金沢市にある「金沢蓄音器館」で島倉さんのデビュー曲「この世の花」の宣伝用SP盤レコードを聴いたことがあるが、島倉さんの声のぬくもりや深み、優しさがよみがえってくるほどの音源だった。島倉さんは当時16歳。こんなにも清らかな歌声だったとは……。

 多くの日本人が少女・島倉千代子の一途な姿に心を打たれたに違いない。

 没後、同世代の写真家・浅井慎平さん(86)は、私の取材にこんなことを言っていた。

「ラテン音楽のような味わいがあった。哀調を帯びた明るさなのです。日本の戦後史に寄り添うように生きてきた歌手だった。突然私たちの前から姿を消し、その存在の大きさに改めて多くの日本人が気づいたのではないか」

 たしかに、歌手としては順風満帆だった。が、私生活は波乱に満ちていた。失明寸前の大けが、結婚と離婚、巨額の借金、姉の自殺、乳がんの手術……。度重なる脅迫事件もあった。自ら命を絶とうと思い詰めたこともあった。

 東京・赤坂の自宅は抵当に入り、数百点の着物も人手に渡った。歌い続ける毎日。夜になると声が出なくなることもあった。

「つらいとき、部屋の壁やタンスに忍(しのぶ)という字を指で書きました。『忍、母さんを助けて!』と祈るような気持ちでした。ええ、忍はあの子たちの名前です」(朝日新聞1986年8月22日夕刊)

 中絶した子どもたちのことである。国民的人気者になった島倉さんにとって、理由はどうあろうと、この事実はなかなか公にできないことだったのだろう。何より、自分はその気でも、周囲は許してくれない。その重荷が島倉さんの心にのしかかっていた。

 地方公演に出かけるとき、島倉さんは高さ10センチほどの虚空蔵菩薩と小さな茶わん3つを持って出たという。「産めなかった子どもたちに、お水をあげたいのです」。島倉さんは周囲の反対を押し切って、正式に供養も済ませている。

「忍、ごめんなさい。これからは母さん、いつも一緒よ。母さんの子でよかったと思ってもらえるように頑張るわ」

 その純粋な気持ちは、生涯、忘れることがなかった。

残り少ない命を削って…

 振り返ると、6歳のときのけがでは47針も縫い、出血多量で危うく死ぬところだった。鉄棒にもぶらさがれず、体操の時間はいつも見学組である。自然と無口になった島倉さんに母がお風呂で歌を教え、励ましてくれたそうである。

 歌うことしか考えていなかった人だった。人を疑わず、誰に対しても優しく接した。ファンの投げたテープが目に当たって失明しかけたり、実印を預けたせいで多額の借金を背負わされて公演先まで借金取りが押し寄せたりと、運命の神様はどこまで意地悪すれば気が済むのだろう。

 しかし、そうした人生が87年の大ヒット「人生いろいろ」を生んだのではないか。

 軽快なテンポの曲調にのせ、「死んでしまおうなんて 悩んだりしたわ」と淡々と歌った。その歌詞を聴いて、ファンは島倉さんの人生をダブらせた。「人生いろいろ」は少し人気に陰りが出ていた島倉さんにとって再ブレークの転機となった。しかし、その後も93年に乳がんが発覚するなど波乱は続いた。

 そして2010年、肝臓がんを発症する。13年には肝硬変を併発し、6月から入院していたが、宮崎・延岡の公演には病院から会場に行った。デビュー60年の節目に向けて南こうせつさん(74)に作曲を依頼した新曲は、一時退院して自宅で録音した。

 新曲「からたちの小径」である。自宅には亡くなる3日前、本人の希望で機材が持ち込まれたという。島倉さんの声はかすれていたが、立ち会った人たちは残り少ない命を削ってまで歌いあげる「執念」を感じたそうである。レコーディングできたこと自体、奇跡だった。

「島倉さんは幾多の試練をエネルギーに換え、人生の最後に勝った」と都はるみさん(75)は私の取材に応じて答えた。懸命なその姿を見て、歌の神様も天から舞い降り、応援したにちがいない。

 紫色が好きだった。見る人をどこか物思いに誘う色である。

 次回は、1992年に26歳で急逝したロックミュージシャン尾崎豊さん(1966〜1992)。大人社会や管理教育への反抗、自由を訴え、「10代の教祖」「若者のカリスマ」などとたたえられ、今なお若い世代にも響く“オザキ”。4歳年上の筆者が、居場所がなく、孤独に葛藤していた少年時代を重ねる。

小泉信一
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部