現在、NHK大河ドラマ「光る君へ」の登場人物で、視聴者の注目をもっとも集めている一人が、花山天皇(本郷奏多)ではないだろうか。

 第6回「二人の才女」では、寵愛していた女御の藤原忯子(井上咲楽)が懐妊したまま急死してしまった。その続きが描かれた第7回「おかしきことこそ」では、花山天皇が嘆き悲しむ姿が描かれたが、そのとき天皇は、亡き妻をしのぶヒモを握りしめていたので、視聴者からの反響が大きかったようだ。というのも、そのヒモというのが、以前、花山が忯子と一夜を共にしたときに、怪しげに使っていたものだったからである。

 この天皇は奇行も多かったと伝えられており、本郷自身、インタビューに「僕なりに文献や史料をひもといたところ、好色であるうえ、周囲を驚かせるような奇行に走ったなど、さまざまなエピソードが出てきました」と答えている。

 その「成果」だろう。ドラマでも足で扇を操りながら会話をしたり、側近の烏帽子を脱がしてしまったりと、幼稚で奔放な言動で強いインパクトをあたえてきた。ちなみに、当時は頭に被る烏帽子を脱がされることは、人前で裸にさせられるのに近い恥辱だった。だが、たいていの俳優はそんな所作を演じれば、高貴な人物に見えなくなるだろう。それでも品位を失わないのは、本郷の力だと思われる。

 そして、花山が忯子を愛する気持ちと、彼女を喪っての悲しみも、かなり強烈に描かれた。本郷はこの天皇について「寵愛する忯子への想いが強すぎて身を持ち崩します」と語っているが、事実、その想いの強さゆえに、悲劇に見舞われることになり、その影響は紫式部の一家にもおよぶことになる。

唯一の外戚を出世させて恨まれる

 花山天皇は、「光る君へ」で坂東巳之助が演じた円融天皇の後を継いでおり、父は冷泉天皇、母は摂政太政大臣にまで上り詰めた藤原伊尹(道長の祖父、藤原師輔の長男)の娘、懐子だった。円融天皇が即位すると、生後わずか10カ月で皇太子となり、永観2年(984)に17歳で即位した。若年での即位だから、後ろ盾が強固だったのではないかと想像してしまうが、現実には、権力基盤は非常に弱かった。

 強力に後見するはずだった外祖父の伊尹は、天禄3年(972)、花山天皇(師貞親王と呼ばれていた)がまだ5歳のときに病死していた。さらには、母の弟である藤原挙賢と義孝は天延2年(974)、ともに大流行した疱瘡にかかって死去。翌年には母親の懐子も亡くなり、外戚といえば、挙賢や義孝の弟(伊尹の六男)であった義懐だけになってしまった。

 そこで花山天皇は、即位後に外叔父の義懐(ドラマでは高橋光臣が演じている)を重用することになる。即位するやいなや、義懐を天皇の首席秘書にあたる蔵人頭に抜擢し、それまで従四位上だった位階も正三位に上げ、翌寛和元年(985)には従二位権中納言にまで引き上げている。義懐が次期の大臣や摂政および関白の最有力候補に躍り出たことは、だれが見ても明らかだった。

 そのうえで、天皇は荘園整理令をはじめとする施策を意欲的に進めたが、やはり政権基盤は脆弱だった。義懐は天皇の信頼を得て出世街道を邁進していたが、いまだ大臣にはなっていなかった。当時、円融天皇時代からの実力者である藤原頼忠が関白だったが、花山天皇とは外戚関係になかった。また、頼忠にしても、地位が低い義懐が力をもつのはおもしろくなかったと考えられる。

 ほかにも花山天皇の姿勢を苦々しく思っている人物がいた。ドラマの主役の一人である藤原道長(柄本佑)の父、兼家(段田安則)である。義懐が権中納言ながら政治を差配すること自体、気に入らなかったに違いないが、それ以上に、自身の血統が兄である伊尹(義懐の父)の血統に、権力闘争で負けることだけは避けたかったと思われる。

 さらには、兼家はすでに、円融天皇のもとに入内させた詮子が産んだ懐仁親王を皇太子に立てており、花山を退位させて懐仁親王を即位させられれば、自身は外祖父として大いに力を振るうことができる。そんなとき、花山天皇が忯子を失って意気消沈しているという状況は、非常に好都合だったのである。

悲嘆にくれる様子が兼家につけ込まれた

 悲嘆にくれる花山天皇は、忯子を供養するために出家したいといい出したようだ。もっとも、一時的な気の迷いだろうから、義懐らは翻意するように説得したが、この状況は兼家にはきわめて好都合だった。実際、兼家の次男で、蔵人として花山天皇の秘書役を務めていた藤原道兼(玉置玲央)が、出家を促している。

 むろん、背後にいたのは兼家だと考えられている。天皇が意気消沈しているのにかこつけて、兼家が相談に乗ったのである。そして、寛和2年(986)6月23日、午前1時から3時という深夜帯に、花山天皇は内裏の清涼殿を出て、車に道兼と同乗して東山の元慶寺に行き、即座に出家してしまった。

 しかも、兼家は用意周到である。それに先立って、天皇の即位に必要な宝剣などは、兼家の長男の道綱が運んでいて、すぐに懐仁親王に献上された。そして、内裏の諸門を固めたうえで、兼家の外孫である親王を一条天皇として即位させたのである。

 これは花山天皇への同情を装った明らかなクーデターで(寛和の変)、こうして花山天皇の治世はわずか2年ほどで終わってしまった。本郷奏多がいうように、まさに「寵愛する忯子への想いが強すぎて身を持ち崩し」てしまった。

 いうまでもなく、以後、兼家は天皇の外祖父として摂政に就任。天皇の血を引かない人臣としては、藤原良房以来、二人目の摂政として、政治の中枢に躍り出る。また、父である兼家がここで権力を握っていなかったら、のちに道長が栄華をきわめることも、なかった可能性が高い。

 ただし、紫式部(吉高由里子)の父である藤原為時(岸谷五朗)は、とばっちりを食らってしまう。為時は詩文や歴史に通じた知識人だったが、長く官職に就けないままだった。ところが、師貞親王に詩文などを手ほどきする役割を担った 縁で、親王が花山天皇として即位すると、すぐに蔵人に任ぜられ、ようやく日の目を見ていた。ところが、天皇との関係を深めすぎたのが災いして、天皇が代わるやいなや、蔵人の官職を追われ、その後、10年にわたって無官の状態が続くことになってしまったのだ。

 変わり者の天皇と、世渡りが下手な下級貴族。権謀術数渦巻くなかでは、なかなかうまく生きられない花山と為時が、ドラマではよく描かれている。ただ、父のそんな不遇があればこそ、紫式部の少々屈折した観察眼も磨かれ、偉大な文学が遺されたともいえるだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部