お笑いユニット「脱線トリオ」での活躍に、数々の映画出演 。テレビドラマでは「寺内貫太郎一家」(TBS)や「ムー一族」(同前)、世代によっては「がんばれ!!ロボコン」(NET)のお巡りさんという方もいるのでは。喜劇役者、コメディアンとして最期までアチャラカ・ドタバタ・ナンセンスに徹した由利徹さん(1921〜1999)。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は誰もが愛した喜劇王が抱えていた心の内に迫ります。

「チンチンチロリンのカックン」

 猥雑でナンセンスな笑いを軽やかに演じた。独特のズーズー弁に、とぼけた味の演技。笑いの奥に、そこはかとない哀愁をも感じさせた喜劇人だった。普段は人見知り。インタビュアーと目を合わせることもできないほど照れ屋だった。こちらが冗談を言うと、そっぽを向いてしまうこともあったそうである。

 由利徹(本名・奥田清治)。肝臓がんのため78歳で旅立ったのは1999年5月20日だった。あれから四半世紀が過ぎたが、私には由利がいまでもどこかの舞台に立っているような気がしてならない。

 由利には「チンチロリンのカックン」や「オシャ、マンベ」という有名なギャグがあった。

「オシャ、マンベ」は高倉健(1931〜2014)が主演の映画「網走番外地」シリーズで、よく北海道の長万部にロケに行ったことがきっかけになったらしい。長万部の人たちには世話になっていたので、ちょっとは宣伝しなくちゃという気持ちになったのだろう。「マンべ」を強調することにより卑猥に聞こえることに気づき、これはギャグとして使えると確信したようである。もちろん長万部の住民からは猛抗議。NHKなど公共の場では使わなくなったそうだ。

 それにしても「カックン」も「オシャ、マンベ」も、それがどうしておかしいのか理論的に説明せよと問われてもできない。

「意味なく天井が落ちたり、畳を踏み抜いたりする無機質な笑いは、簡単なようでいて、ちょっとしたタイミングのずれでつまらないものになってしまう」

 演出家で作家の久世光彦(1935〜2006)は、朝日新聞の取材にこう答えている(99年5月20日夕刊芸能面)。そう、由利には意味なんてどうでもいいのである。

ボクサーを目指して上京

 経歴を簡単に紹介する――。数々のお笑い番組を仕掛けたテレビプロデューサー・澤田隆治(1933〜2021)が著した「決定版 私説コメディアン史」(ちくま文庫)によると、1921(大正10)年、宮城県石巻市生まれ。プロボクサーのピストン堀口(1914〜1950)に憧れ、上京。拳闘クラブに入門してボクシングの練習に励んだが結局ものにならず、1942(昭和17)年、なぜか軽演劇場「ムーランルージュ新宿座」に入った。翌年には陸軍通信隊に入隊し、中国戦線に赴く。戦後、新宿ムーランが縁で芸能界に入り、やがて八波むと志(1926〜1964)、南利明(1924〜1995)とともに「脱線トリオ」を結成。テレビ出演を機に爆発的な人気を得た。

 由利が貫いたのは懐古的な笑いではなく、瞬間、瞬間に状況を織り込んだ新しい芸だった。身体的柔軟さをフルに生かしたスピード感あふれる芝居もあった。喜劇役者にとって運動神経に恵まれることは不可欠の条件だったが、由利は凄まじいまでの瞬間芸を発揮した。ここぞというときにはハチャメチャな動きをしてみせたのである。

 さて、ここからはあくまでも私の持論だが、日本の喜劇人は、晩年になり、功成り名を遂げると、いわゆる「渋い役者」になってしまい、喜劇から一線を引いてしまう傾向がある。そんな中、由利は人を小馬鹿にしたようなドタバタな道化芝居をやめなかった。いまの時代だったら炎上してしまいそうな下ネタもやめなかった。そこが何よりも偉い! それでいて、前述したようにどこかペーソスを感じさせる男でもあった。

 テレビドラマ「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」(いずれもTBS)などで由利と共演した女優の樹木希林(1943〜2018)は、由利が場末のストリップ小屋の客を舞台で演じたときのことをよく覚えていた。

「かぶりつきで身を乗り出し、ストリッパーに見せろというときの顔の真剣さ、男の性(さが)、切実さを感じた」

 と樹木。人間とは猥雑な存在であると由利は確信していたに違いない。実際、家庭は大切にしていたが、女性との浮名は多かった。いわゆる女好き、女道楽である。何日も家を留守にするが、オドオドしながら帰ってくる。

「最初は裏切られたと、心が寒くなりました。でも、もうこれでいいと思ったんですよ。しつこく問いつめるのは私の性格ではない。言って止まるなら言いますが、とまりそうになかった」

 と元松竹歌劇団で男役として活躍した妻は振り返っている。由利は「おかえりなさい」と何げなく言う妻の顔がすごく怖かったそうである。

根底にある戦争体験

 酒も好きだった由利。芸人仲間の話によると絡み酒が多かったそうであるが、弟子のたこ八郎(1940〜1985)には優しかった。

 70歳を過ぎてからは夜の遊びにも出かけることがめっきり減った。仕事が終わるとまっすぐに家に帰ってくるのである。遊んでいたときは、あれほどキラキラ輝いていた由利。「男の人も色気が抜けるとかわいそうだな」と妻は思ったに違いない。

 それにしても、一見、不真面目に見える由利の姿勢は、どのようにして生まれたのだろうか。それを紐解く鍵は、93年4月、春の叙勲で勲四等瑞宝章を受章したときの会見の記事(朝日新聞朝刊社会面・同月29日)を読むとよく分かる。少し長いが、そのまま紹介する。

《うれしさと悲しさが、いつも心の中で共存している。「勲章なんかもらって、おれの本質から外れちゃうようになったら困るな」と真顔でいう。生涯、道化だからだ。

 故八波むと志、南利明と組んで、昭和三十年代にテレビで人気を博した脱線トリオ時代のことだ。東京の日劇で結成五周年の公演をした。幕が下りても拍手がやまず、舞台に引き戻されると、そでで弟子が小指を立てて目配せをする。カーテンコールが終わって、上機嫌で弟子に聞いた。「彼女から電話あったの?」「違います。師匠のオフクロさんが亡くなりました」

 故郷は宮城県石巻市だ。公演中で帰れない。劇場を飛び出し、流しのタクシーを拾って、明治神宮の周りをグルグル回ってもらった。泣くためだった。

 大工の家に生まれ、十八歳で、新宿にあった軽演劇場のムーランルージュに入った。そのころは、歌手を志していた。歌謡学校にも半年通ったが、なまりがひどくて役者になった。「喜劇はむずかしいよ。明日、今日と同じことをやっても笑ってくれない」

 去年、日本喜劇人協会の七代目の会長になった。初代は、「エノケン先生」と慕う故榎本健一である。》

 この記事では触れていなかったが、由利の人生観の原点に戦争体験があったことも忘れてはいけない。動員された中国戦線。将校は馬に乗ることができたが、兵隊はひたすら歩くしかない。

 一緒に行軍していた仲間がインキンに罹った。歩くごとに股がこすれて痛い。泣いてしまうほどの痛さだった。なので、ズボンだけ脱ぐことを許された。どこからかメリケン粉を調達した由利は、患部にふりかけたのだそうである。全員が重装備の軍装の中で、ひとりだけ下半身丸出しの男。でも、周囲は全く笑うことはできなかった。人間に対する醒めた目、苦しさやむなしさへの諦念。そんなものを由利は戦争体験で学んだのだろう。

 さて、ここまで書きながら、やはり由利といえばテレビや舞台で繰り返して演じた、十八番(おはこ)のコント「ババアの裁縫」を挙げないわけにはいかない。コントの結末は、髪の油をつけようとして手が滑って針で自分の肌まで突いてしまうというたわいのないものだったが、由利の告別式の弔辞でこのエピソードを紹介したのが、先にも書いた演出家の久世光彦だった。久世は「一匹の赤鬼が、目をらんらんと光らせてババアの裁縫を演じている。笑いをアナーキーなまでに高めた鬼の生涯を心から尊敬する。その芸を見て笑って、涙が出るまで笑った私たちは幸せでした」と述べた。

 芸の鬼だった由利。あの激しかった戦争を生き残ったからこそ、戦後エネルギッシュに動き回ったのだろう。

 次回は、胸のすくような豪快な女剣劇で大衆を沸かせた浅香光代(1928〜2020)。負けず嫌いで意地っ張り。細かな気遣いを見せる「情の人」の素顔に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部