京唄子と鳳啓助の「唄子・啓助」といえば、昭和の時代に絶大な人気を誇った夫婦漫才コンビだ。昭和31年のコンビ結成後に結婚した2人は、昭和40年の離婚を経てもコンビでの活動を継続。しかも、昭和44年にスタートした視聴者参加型のトーク番組「唄子・啓助のおもろい夫婦」(フジテレビ系)を、なんと16年の長寿番組に育て上げている。仕事を続けるための割り切った関係ではあったものの、2人が語った言葉には深い絆と互いへの思いがにじんでいた。元夫婦としても支え合う関係になった理由には、啓助の特異なキャラクターがあったようだ。

(「新潮45」2006年9月号特集「昭和&平成 芸能史『女と男』13の修羅場」掲載記事をもとに再構成しました。文中敬称略)

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訃報を聞いて泣き崩れた唄子

 リズミカルな掛け合い、ナンセンスなぼけぶりで上方芸能界屈指の人気を築いた夫婦漫才の鳳啓助が逝ったとき、長年相方を務めた京唄子は、ある雑誌の取材に応じ、いち男性としての啓助像をこう回想している。

「やさしいんですよ。女性をその気にさせるのが上手で。でも夫婦でいたら、気の休まることがない。いつもちょろちょろして、(ほかの女性に)コナかけてますからね」

 私生活では、啓助の2番目の妻だった。しかし、夫婦関係を解消してからもなお、浮き沈みの激しい芸の世界で苦楽をともにしてきた彼女の存在は、一種特別だった。互いに役者あがり、妙な符丁か、どちらも4度の結婚を経験する。ただ、ふたりとも「あ・うん」の脈に通じた芸の相方は、生涯ひとりだけだった。

啓助「いよいよ粉末でんな」
唄子「なんや、それ」
啓助「いいそこ間違い。年末でした」
唄子「お前、脳いかれとんのとちゃうか」
啓助「オー・ノー」

 啓助が世を去る8カ月前、平成5年暮れに2人は16年ぶりに漫才コンビを復活させていた。だが、年明け早々に体調を崩した啓助は、間もなく末期リンパ腺癌の宣告を受ける。そして平成6年8月8日、71歳の彼は最後の妻に看取られて、静岡県下の病院で眠るように息を引きとった。

 大阪での公演中に訃報を聞いた京唄子は、舞台を降りて報道陣に囲まれると、人目もはばからず泣き崩れたという。

啓助の最初の妻は漫談家

 大正12年に大阪の天王寺で、非嫡出子として生まれた啓助の本名は、小田啓三。父は三味線問屋の主人で、母は弟子入りしていた女浄瑠璃師だった。

 2歳で父と死別した啓助は、母の結婚により、3歳のときに山口県下で田舎芝居一座を率いていた祖父のもとへ預けられる。転校続きで学校にはほとんど通わず、一座の旅暮らしのなかで育つ。役がつかない時期には、呉服屋や洗濯屋へ奉公にも上がった。

 祖父と死別し、頼った母の家庭にも馴染めず、16で大阪に流れてきた彼が、漫談家の吾妻ひな子と所帯を持ったのは20歳のころ。一女をもうけたその生活は、妻のハワイ巡業中に精を出した浮気がもとで、6年ほどで破局した。

妻のシャレを真に受けて口説いた27人

 啓助が、「アサヒ芸能」平成3年7月18日号で語った「おんなと自分史」である。

「留守中に、自分がどれだけモテるか試してみたらエエワ」という妻の言葉に従い、出航を見送った啓助は、ファンや仕事場の女性を端からくどいた。

「結局、3カ月で27人とデキた」彼は、相方の評を逐一日記にまとめ、帰国した妻に丁寧に報告したという。これが彼女の逆鱗に触れ、「シャレでいうてんのを、本気にするやつがどこにおる!」と家を追い出されるのである。

 せっせとくどき落としたその27人のなかに、当時、啓助が役者兼座付き作家として活躍していた「瀬川信子劇団」の人妻女優・京唄子がいた。劇団には俳優であった彼女の夫もいた。

「そのころボクは台本も書いててね。夜中、舞台の上に小机置いて裸電球の下で原稿書いていると、コトコト足音がする。深夜に唄子がとっくり持って出かけようとしてるんですよ。(略)旦那はふだんはいい人なんやけど酒乱だった。酒買って来いいうて殴ったり蹴ったりすんですワ」

 そんな彼女に同情し、一緒に酒屋を探し、相談に乗り「ゴタゴタしてるうちにデキてしまった」と言う。やがて事情が座長に知れ、啓助が一座を去ることになる。

唄子が抱いた第一印象は「世にも汚い男」

 当初の芸名を京町歌子といった京唄子は、京都の生まれで、父は「東西屋」(ちんどん屋)の親方だった。一時は地元の大手製作所、簡易保険局に勤めた彼女だが、戦時中に慰問演劇に参加したことをきっかけに、戦後一転、劇団界に身を投じた。そこで知り合った20歳以上年上の夫との間に一女をもうけ、夫婦で小劇団を転々とする生活のなかで、啓助と知り合うのである。

「初めて会ったのは昭和27年ごろ。世にも汚い男でしたわ。ヒロポン打って、髪はボサボサで、いいかげんな人。ところがいろいろあって……」とは、啓助の死の直後、彼女が「週刊新潮」の追悼記事で述べた飾り気のない印象だった。

 妻と別れ、「瀬川信子劇団」を退いた啓助は、宿無し状態で新劇団「人間座」を興す。ほどなくそこに、「旦那と別れてきたから、面倒見てちょうだい」と、唄子がふらりとやってくる。

 新劇団に唄子が飛び込み、かたや、彼女が母親と住んでいた京都の家に啓助が転がり込み、妙な案配で互いの足下が固まり、新しい夫婦関係と二人三脚の仕事が船出している。

 だが、芝居小屋を支えていた“娯楽に飢えた人々”の足が、ストリップ劇場に吸い込まれる逆風の時代だった。3年ほどのち、啓助もついに人間座の旗を降ろさざるをえなくなった。そうして打った次の手が、夫婦漫才だったのだ。

「唄子は才能があって頭がよかった」

 もっともほかの劇団からは、ふたりを役者として迎え入れたいという申し出もあった。

「そやのに啓ちゃんが“唄子、漫才をやって3年辛抱してくれ。そしたら、もっと大きい劇場で、いまより大きい女優にしたる…”というて転向しましたんや。最初は舞台に出るのがいやで、ワアワア泣きましたわ」(「週刊平凡」昭和51年2月26日号)

「京唄子」は、このときに啓助が付けた芸名だ。軽いコントから入った唄・啓が、漫才コンビとして本格デビューしたのは、昭和31年の春。

 前出「アサヒ芸能」にある啓助の唄子評である。

「才能があって頭がよかった。漫才の台本を舞台に出る30分前に書いても、ちゃんと覚えてこなしましたからね。唄子といっしょでなければ、あんな漫才できなかったやろうな」

「大口」「カッパ」と相手をこきおろしつつも嫌みのない掛け合いに客が笑い転げ、活躍の場はテレビ、ラジオへと広がっていく。とりわけ、昭和44年から始まったテレビ番組「唄子・啓助のおもろい夫婦」での人間臭い司会ぶりは、視聴者の共感を呼んだ。「おもろい夫婦」は、放送16年にも及ぶ長寿番組となった。

ついに別離もコンビ解消は回避

 しかし順調な仕事の裏で、夫婦関係は波乱続きだった。一向にやむ気配のない啓助の浮気を黙認し、芸のためにふたりの子どもを堕ろしてきた唄子だったが、結婚11年目の昭和38年、ついに別離に踏み切っている。

 引き金は、啓助が入れ込んだ女性の妊娠だった。相手は、唄子の後輩にあたる若手女優で、やがて彼女が啓助の3人目の妻となる。

「啓ちゃんに子どもができたと、弟子の口から聞いたときは、これでみんなおしまいやと思いましたね」(「女性セブン」昭和51年6月9日号・桂三枝との対談)と、のちに唄子は涙ながらに告白している。

 しかし関係者の説得もあり、ふたりは崖っぷちでコンビ解消を踏みとどまるのだ。同じ対談で唄子はこう続ける。

「急に相手変えても、うまくいきませんよ。私が他の人と組んでもだめ、啓ちゃんが他の女性と組んでもだめですね」

 啓助もそれを認めつつ、一切を割り切った心のうちを、「けっきょく、仕事に対してガメツイから、としかいいようがおまへんな……」(「週刊平凡」昭和43年8月29日号)とやや自嘲気味に表現している。

「負けんなよ!」という温かい声援

「エロガッパ」を自称した啓助の真骨頂は、自らが失意の底に突き落とした元妻にすら「ほんとうに憎めん人やからね……」と言わせる、邪気のない愛嬌と優しさだろう。

 荒れた生活がたたり、番組収録中に骨盤骨折して入院した唄子をしばしば見舞い、ときには泊まり込んで慰めたのもまた、浮気の張本人だった。彼女の3度目の結婚に際しては、立会人を務め、手一杯の祝福を送った。夫婦別れから7年ほどのち、昭和45年には「唄啓劇団」を旗揚げし、かつての約束通り、彼女を看板女優に押し出していくのである。

 2年近く伏せていた夫婦別れの事実を新聞にスッパ抜かれ、それをファンに告げた場面というのが、実に「おもろい夫婦」らしかった。昭和40年秋、大阪の日立ホール(当時)である。

「別れた夫婦の漫才なんか見たない言うたらやめます」

 会場から返ってきたのは、「負けんなよ!」という温かい声援であった。

駒村吉重(こまむら・きちえ)
1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。

デイリー新潮編集部