今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』において、やりすぎだと感じる点があるとすれば、その最大のものは、藤原道長(柄本佑)と紫式部(吉高由里子、ドラマではまひろ)の恋愛である。紫式部については、若いころのことがほとんどわかっていないため、道長と恋愛でもさせないと間がもたないのはわかる。だが、恋愛の場面が多いのもさることながら、道長がついに結婚を決意するのも、まひろが結婚をしたがらないのも、二人のかなわぬ恋のゆえ、という描き方は少々うっとうしい。

 それはともかく、第13回「進むべき道」(3月31日放送)で、道長は左大臣である源雅信(益岡徹)の娘、倫子(黒木華)のもとに婿入りした。また、この回で道長は、姉で一条天皇の母である 詮子(吉田羊)に勧められ、源高明の娘であった明子とも結婚している。そして、詮子が弟に縁談を持ちかけたときのセリフが、二つの結婚の意味を物語っていた。いわく「高明の忘れ形見を妻にしていつくしみ、怨念を鎮め、高貴な血をわが家に入れる」。

「怨念」というのは、左大臣だった源高明らが、おそらくは藤原氏の陰謀によって太宰府に流され、その後、都に戻るものの失意のうちに死んだことを指す。だが、そのことについてはここでは深入りせず、「高貴な血」の意味を解いていきたい。

 第13回では、道長の父である摂政の藤原兼家(段田安則)が源雅信を呼び出し、「じつは愚息、道長のことでお願いがございまして。道長が左大臣家の姫君をお慕いしていると申すのです」と切り出した。さらには、断れないように圧力をかける様子も描かれたが、雅信は躊躇していた。たしかに、『栄華物語』にも、道長と倫子の縁談を聞かされた雅信の、「あなもの狂ほし。ことのほかや(ああ、ばかばかしい。問題にならない)という反応が記されている。

 しかし、摂政としてわが世の春を謳歌する兼家の息子との縁談に、雅信はなぜ躊躇するのか。なぜ「問題にならない」と切り捨てるのか。疑問に感じる人も多いのではないだろうか。

藤原氏には絶対にかなわない源氏の血筋

 歴史学者の倉本和宏氏は、「兼家の五男で左京大夫に過ぎなかった道長が、何故に左大臣源雅信の女である倫子の婿になることができたのかはわからない。天皇(この年、八歳)も東宮(この年、十二歳)も、倫子と結婚するには若すぎたことも原因であろう」と記す(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。 この説明に、上述した疑問を解くカギがある。

 それにはまず、源氏について理解しておく必要がある。「臣籍降下」という言葉がある。皇族が身分を離れ、臣下の籍に入ることで、そのときに賜る姓のひとつが「源」だった。こうした姓にはほかに「在原」や「平」などもあったが、なかでも「源」は天皇の子や孫にあたえられることが多く、ほかの姓よりも血統が天皇に近かった。

 わかりやすい例が『源氏物語』の主人公の光源氏で、彼は天皇の子として描かれている。そして源雅信も、宇多天皇の息子で醍醐天皇の同母弟だった敦実親王の子で、天皇の孫にあたった。片や、藤原氏は最初から臣下であって、天皇家から分かれた血族ではない。このように「源」と「藤原」では最初から血統がまったく違う。源雅信もそう考えていたから、いまをときめく摂政の子であろうとも、自分の娘の婿になんて「問題にならない」といったのだと考えられる。

 要するに、雅信は倫子を、血筋にふさわしく后候補として育てたのだが、現実には倉本氏が述べるように、時の天皇も東宮も、すでに24歳になっていた倫子の相手としては若すぎた。結果として、嫁ぎ先がないので、母の穆子の勧めもあって、22歳の道長が分不相応ながら、天皇のひ孫に婿入りすることができたというわけだ。

 こうして、ドラマで詮子が表現した「高貴な血」と結ばれたことで、結婚翌月の永延2年(988)正月には、それまで辛うじて公卿の末席にいたにすぎない道長は、6人抜きで権中納言に抜擢されている。山本淳子氏は「政界トップの摂政(註・兼家のこと)の息子が源氏の重鎮である左大臣の婿になるとは、こういうことなのだ」と記す(『道長ものがたり』朝日選書)。

源氏の血を望んだのは道長自身

 この縁談、『光る君へ』では、先述したように父の兼家が主導したように描かれたが、歴史物語の『大鏡』には、道長自身が率先して進めたように書かれている。おそらくは、それが真相なのではないだろうか。なぜなら、父の兼家も、兄の道隆や道兼も、源倫子のような高貴な血筋の女性とは結婚していないからである。

 兼家の正妻の時姫、つまり道長の母は、藤原仲正という受領(地方長官)階級の娘だった。受領は中級貴族であり、中央での出世は望めない場合が多かった。そして、道隆の正妻の高階貴子も、道隆の正妻の藤原遠量女も、父と同じく受領階級の娘だった。要は、兼家は、立身出世するために、妻の家柄に頼る必要性をあまり感じていなかった節がある。

 だが、道長は違った。五男坊が栄達を重ねるためには、「高貴な血」を入れる必要があると考えたのではないだろうか。だからこそ、ほぼ同時に、源氏の二人の娘と結婚する道を選んだのだろう。

 ほぼ同時に結婚したもう一人の妻が、源高明の娘の明子(ドラマでは瀧内公美)だった。彼女は血筋だけなら倫子を上回っていた。なにしろ父の高明は醍醐天皇の子だったので、明子はその孫ということになる。それでも、倫子の立場を超えることができなかったのには理由があった。冒頭で記したように、高明は政変によって安和2年(969)、左大臣の要職を追われて太宰府に流され、このときはすでに没していた。つまり、倫子のように実家の後ろ盾がなかったのである。

高貴な血で家の価値を高める

 このため明子は、一条天皇の母として皇太后になっていた詮子のもとに引きとられていたのだが、落ちぶれたとはいっても天皇の孫。何人もの貴族から結婚の申し込みがあったようだ。しかし、詮子の導きと、高貴な血に対する道長の渇望があって、道長の第二夫人になった。

 ちなみに、道長は倫子とのあいだに2男4女を、明子とのあいだに4男2女をもうけている。

 とりわけ倫子が産んだ子は、男子は長男の頼通も、五男の教通も、関白太政大臣という政権のトップに上り詰めた。また4人の女子は、長女の彰子が一条天皇の中宮になり、その後も次女の妍子が三条天皇の、四女の威子が後一条天皇の中宮になった。六女の嬉子は、入内した東宮(皇太子)が後朱雀天皇として即位する前に没したので、中宮にこそなれなかったが、道長は4人全員を天皇や東宮のもとに入内させ、正室にした。

 むろんドラマでも、道長が下級貴族の娘であるまひろへの純愛にうつつを抜かし、結婚後も忘れられずにいる状況は、いつまでも続かないとは思うが、史実の道長は、これほど妻の血筋にこだわった。そして、血統を高めながら家の価値を高めようとしたのである。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部