作家・武田泰淳の『ひかりごけ』(1954年)は、43年に知床半島で起こった「遭難船人食い事件」をモデルにしている。ディティールに違いはあるものの、極寒の中で船が遭難し、陸地に流れ着いた生存者が死者の肉を食べたという流れは同じだ。小説は高い評価を受け、1992年には三國連太郎主演で映画化された。一方で、実在の船長は助かった当初こそ「不死身の神兵」と呼ばれたが、事件の発覚で1年間の服役生活を送り、出所後も自らを責め続けた。いったいなぜ事件が発覚したのか。

(「新潮45」2006年2月号特集「明治・大正・昭和 文壇13の『怪』事件簿」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)

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大シケで消息を絶った徴用船

 北海道・知床半島の突端近くにペキンノ鼻という奇妙な地名がある。もともとはアイヌ語の「ペレケ・ノッ」から来ており、「裂けた岬」の意味だという。

 この由来のごとく、知床の岬は、冬場は突風と猛吹雪が荒れ狂う酷寒の地で、人が足を踏み入れるのは、漁師が浜辺の番屋に泊まり込んでウニやコンブを獲る短い夏の間ぐらいであった。

 事件はこのペキンノ鼻で起こった。

 昭和18年(1943年)12月3日、日本陸軍暁部隊所属の徴用船「第五精進丸」(約30トン)が、部隊の命を受けて根室港を出港、オホーツク海を北上し宗谷岬を迂回して小樽へ向かう予定だった。ところが、知床岬沖で大シケに遭い消息を断つ。乗組員7名は全員絶望かと思われた。

 それから2カ月後の昭和19年2月3日のことである。知床岬から約16キロ離れた羅臼村字ルシャ(現・羅臼町岬町)の人家に、外套の上に筵を巻いた異様な風体の男が転がり込んで助けを求めた。

臭気から人肉と直感

 男は、この家の老夫婦に、自分は徴用船「第五精進丸」の船長、黒沢重吉(仮名・当時29歳)であると名乗り、「船が難破して乗組員6名は皆死亡したが、自分だけが無人の番屋で生き延び、歩いてここまでたどり着いた」と話した。

 知床岬の冬の物凄さを知っている老夫婦は驚愕した。難破船から逃れられても、雪と氷に閉ざされた大地を生き抜くことは不可能に思われたからである。

「不死身の神兵」生還の知らせに羅臼村中は沸き立った。救助隊が組織され、羅臼村中心部に船で移送された船長はその後、帰郷。「英雄の帰還」とあって、地元でも大歓迎を受けた。

 だが、実際に救助に向かった標津署のY巡査部長は早くから疑惑を抱いていた。船長は、乾燥した黒い肉塊を一片持っており、「海岸に漂着したこのトッカリ(アザラシ)の肉で生き延びた」と言ったが、真冬にアザラシの死体など漂着するわけがなく、巡査部長がその肉塊を焼いたところ、臭気から人肉と直感。

人骨と表皮が詰まった箱

 そこで、巡査部長は2月半ば、他3名とともにペキンノ鼻に調査に向かい、船長が一冬過ごした番屋を発見。筵(むしろ)に血痕が付着しているのを確認して、船長が他の船員を殺しその人肉を食っていたとにらんだ。さらに近くで、乗組員の1人の凍死体を発見した。しかし雪が深く、それ以上の調査はできなかった。

 それから3ヵ月がたった5月10日頃、ペキンノ鼻に出かけた漁師は、自分の番屋内に何者かが入り込んだ形跡があるのを見つけた。付近の岩場を調べると、人骨と剥ぎとられた表皮がぎっしり詰まったリンゴ箱があった。また、ウニの加工台には、肉を切り身にして置いたような血の跡も認められた。

 知らせを受けたY巡査部長らは現場に急行、箱の中の人骨を頭部、胴体、手足と並べたところ、一体の骸骨となった。肉はきれいに削りとられ、頭部も割られ、中の脳漿は空っぽだった。

 さらに、陸軍の外套姿の2人の遺体を近くで発見。しかし、残る2人はついに見つからなかった。

 現場検証を終えた一行は、飢餓に陥った船長が船員の1人を殺害し、その肉を食べて生き延び、脱出の際に、食い尽くして骨だけになった人骨を箱詰にして遺棄。遺体の見つからない2人も、あるいは殺して食べたのではないかと推測した。

「不死身の神兵」は一転、食人鬼に堕ちたのである。

無人の番屋に避難した2人

 逮捕された船長は、取り調べに対して、餓死した乗組員・西川繁一(仮名・18歳)の肉を喰ったことはあっさりと認めたが、殺人については強く否認した。

 戦後数十年を経てこの船長にインタビューした北海道新聞編集委員・合田一道氏が著した、『「ひかりごけ」事件 難破船長食人犯罪の真相』(新風舎文庫)によれば、真実は次のようであった。

 大シケで暗礁に乗り上げた難破船から無事に上陸し、無人の番屋に避難できたのは船長と西川の2人だけだった。番屋の中にはマッチとストーブがあったためかろうじて暖をとることができた。

 翌日2人は、突風と猛吹雪の中、5、600メートル離れた隣の番屋に移動する。この番屋の中には味噌や塩がわずかながらあり、2人は、火を絶やさないように注意しながら、浜辺でワカメやコンブを拾い味噌汁にして食べた。

「食って食って食いまくった」

 しかし、それだけではひもじさは募る一方で、体は急速に衰弱。昭和19年の正月を迎える頃には2人とも意識がもうろうとし、夢もうつつも区別がつかない状態になっていた。そして1月18日頃、西川が餓死した。

 その2、3日後のことである。

「シゲの肉食べたのはひもじくてひもじくてどうにもならなくて、ただ食べたってことだろうなあ」
「台所にあった包丁を持ち出し、(中略)屍の肉をそいだ。(中略)人間の肉をそぐなんていう気持ちじゃなかったように思う。なにか動物の肉でも食べるつもりで肉そいだんじゃないかな。その肉を煮たり焼いたりして食べた」
「内股から食べたのかな。わし、どこでもいい、なんでもいいって、手当たりしだいに肉そいで、ただむちゃくちゃに食って食って食いまくった。(中略)ああ、うまいなあって思ったのはだいぶ後になってから」(前出『「ひかりごけ」事件 難破船長食人犯罪の真相』)

 船長は、死骸を食べ始めてから急速に体力を回復し、1月31日頃、脱出を決意。少年の骨を丁寧にリンゴ箱に収めて岩場に置き、漂着した流氷伝いに歩いてルシャまでたどり着いたのである。

懲役1年の実刑判決

 船長は人々から、「何を食べて生きていたんですか?」と聞かれるのが一番つらかったと言う。

「だって人間の肉食って生きてたんだもん。しかしそれを言ったらどうなるかくらいわかってるから、仕方なく、『トッカリの屍が漂着したので、それを食べていました』って答えた。(中略)いずればれて地獄へ堕ちるんだって自分に言い聞かせながら、馬鹿の一つ覚えみたいに、トッカリを食べて生き抜きましたって答えたんだ。そのたびにいたたまれない気持ちになった」(前出『「ひかりごけ」事件 難破船長食人犯罪の真相』)

 検事局は、船長を死体損壊罪で起訴した。「食人」そのものを罰する法律がなかったからである。裁判は非公開で行なわれ、新聞も一行も報じないまま、昭和19年8月、被告人は心神耗弱の状態にあったとされ、懲役1年の実刑判決が言い渡された。

「懲役1年では軽すぎる」

 アンデス山中に墜落した飛行機の生存者たちが、死者の肉を食べて生き抜いた「アンデスの聖餐」、日本人男性が白人女性を殺して食べた「パリ人肉殺人」など、食人事件は他にもある。奇しくもこの事件が起こったちょうど同じ頃には、補給が途絶えて飢餓地獄となった南方戦線で、味方や敵兵の屍肉を食らう兵士が続出した。

 しかし、食人により正式な裁きを受けたのは、世界広しと言えども、この船長ただ1人である。

 船長は網走刑務所に収監され、昭和20年6月、仮出所。しかし、「食人」という重すぎる十字架を背負った船長のその後の人生は過酷だった。

 合田氏の取材に対し繰り返し、「わしのやったことは許されることではない。地獄に堕ちるのが当たり前」と言い、「無罪になってしかるべきだった」と説く合田氏の言葉に耳を貸さず、「懲役1年では軽すぎる。死刑になっても良かった」と自らを責め続けた。

小説『ひかりごけ』の影響

 とりわけ船長にとって耐え難かったと思われるのは、「船長は弱った者から殺して食べた」という風評である。これは、作家・武田泰淳が昭和29年、この事件をモデルにした小説『ひかりごけ』を発表した影響によるところが大きいようだ。

「ひかりごけ」とは、羅臼のマッカウス洞窟に密生している、その名のごとく光る苔で、以来この事件は「ひかりごけ事件」と呼ばれるようになった。この小説の中で船長は、餓死した2人の肉を食べ、さらに、生き残った少年を食うために殺す。人間の原罪を裁く愚かさを告発したこの名作は、戯曲仕立てになっているとはいえ、その迫真性ゆえに事実と混同されたのである。

 黒沢船長は平成元年に76歳で死去。直前に、合田氏とペキンノ鼻への慰霊の旅を約束していたが、果たせずに逝った。

 なお、武田泰淳の小説は、平成4年、同名のタイトルで熊井啓監督により、三國連太郎主演で映画化された。

福田ますみ(ふくだ・ますみ)
1956(昭和31)年横浜市生まれ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行っている。『でっちあげ』で第六回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア』『モンスターマザー』などがある。

デイリー新潮編集部