2024年4月11日に87歳になった加山雄三さん(撮影/写真映像部・東川哲也)

 「若大将シリーズ」などの映画で時代を代表する俳優となり、またミュージシャンとしても数々の曲が大ヒットした加山雄三さん。食事や健康、そして86歳(※インタビュー時)のいま感じる夫婦のきずなについて伺いました。発売中の「朝日脳活マガジン ハレやか 2024年4月号」(朝日新聞出版)より抜粋して紹介します。

■家族そろっての食事を大切にしていました

 2022年9月9日。この日、東京国際フォーラムで最後のホールコンサートを開催しました。63年という長きにわたりファンの方々に支えられ、こうして活動できたことは奇跡に近い。感謝の気持ちでいっぱいです。

 歌うこと、演じることで、多くの人が笑顔になって楽しんでくれる。それが僕自身の喜びでもあります。料理を作るのも同じで、家族や友人、海の仲間たちが僕の料理を喜んでくれるのがうれしくて、「もっと喜ばせてやろう」という気持ちでどんどん腕を上げていったんです。

 そんな僕の料理のレシピとエッセーをまとめた『食べた人が笑顔になるそれが最高の喜び 幸せの料理帖』(KADOKAWA)が発売になりました。これまでのたくさんの料理を、何冊ものレシピノートにまとめてあって、その中から特に好評なレシピを厳選した自信作です。手の込んだ料理だけじゃなく、簡単に手早くできる料理もたくさんあります。

 シンプルなレシピを一つだけ紹介すると、やっぱり「バラハン」かな。ハンバーグを丸めずにそのまま炒めるバラバラのハンバーグだからバラハン。オリジナルのネーミングで、忙しくて時間がないときやたくさん量を作らなければいけないとき、ハンバーグを一つずつ丸めるのはけっこう面倒だから「そのまま炒めてしまえ」と生まれた料理です。

 もちろん僕流のひと工夫もあって、隠し味に少し粉チーズを入れると、それだけでコクが出てうまくなる。そのままごはんにのせてもいいんだけど、さらにアレンジレシピとしてゆで卵を潰して絡めればパンにのせてもおいしい。家族にも好評な加山家の代表的な味の一つです。

加山雄三さん(撮影/写真映像部・東川哲也)

 家族そろって食事をすることをとても大事に思っていて、子どもが家にいたころも加山家では必ず朝食はみんなで食べる習慣がありました。撮影が深夜に及んでも翌日は朝5時台に起きて、全員の朝食を作る。「神様、今日もおいしいごはんをいただけることに感謝します。ありがとうございます。いただきます」と、家族で祈りを捧げる。何かの宗教に入っていたわけではないけど、これは子ども時代からの習慣。でも子どもたちを学校に送り出したら、もう1回寝ちゃうんだけどね(笑)。家族みんなで楽しく食事をすることは、子どもの成長にとっても大切だし、何より僕自身がリラックスできて、仕事の疲れを癒やしてくれていたんです。

■茅ケ崎、そして海が僕のすべての原点

 料理で家族に喜んでもらえることを最初に体験したのは、小学生のころ。幼いころから結婚するまでを過ごした茅ケ崎の海は、僕の原点ともいえる場所です。茅ケ崎の砂場で、バケツいっぱいに採ってきたアサリやハマグリをたっぷりのお湯で茹で、しょうゆとみりん、酒で味付けして佃煮を作ったら、おやじ(俳優・上原謙さん)は「うまいねぇ」って喜んで食べてくれて、ご近所に配ったりしてました。

 船にみせられ憧れを持ったのも小学校のとき。東京商船大(現・東京海洋大)の学生さんに、家庭教師をしてもらっていて、その彼が設計科だったこともあり、船の設計図をいろいろ見せてもらっていました。「おもしろい!」って思い、自分でもマネして船の設計図をよく描いていたんですよ。

 茅ケ崎の海岸からは沖のほうに烏帽子岩(えぼしいわ)が見えるんだけど、「あの島まで行ってみたい」と思って、カヌーの設計図を描いたのは中学生のころ。仲間を集めて僕の描いた設計図をもとに1週間くらいでカヌーを作って、念願の島まで自分たちで作ったカヌーで渡ったときは、ものすごく感動したものです。

 本格的に料理をするようになったのは海の上で必要に迫られたからなんです。僕の船、初代の光進丸が進水した1964年、映画の撮影の合間に小型船舶操縦士の免許を取って航海に出るようになり、長い航海に出るときは、料理人を雇って連れて行くわけにもいかないので、料理はすべて僕が担当。グアムまでの2カ月間の航海では、乗務員を飽きさせてはいけないし、僕自身もおいしいものが食べたかったから、毎日、いろんな料理を作ったんです。

加山雄三さん(撮影/写真映像部・東川哲也)

 カミさん(元女優・松本めぐみさん)との結婚を決めたのも海の上だったかな(笑)。当時は、あまり女性を光進丸に乗せていませんでした。船酔いしてしまう人も多くて可哀想だったので。そんな中、結婚する前のカミさんを光進丸に乗せることになったんです。ただ、なんとも運悪く海がシケてきちゃって。船を操縦しながらも心配で様子を見に行ったら、驚いたことに「どうかしたの?」って感じの平気な顔をして編み物をしていたんです。その姿を見たら、僕の嫁さんはこの人しかいない!って(笑)。

■学生時代は俳優業にはまったく興味がなかった

 実は、大学生のころは俳優なんて全く興味なかったんですよ。それに比べて音楽のほうは、小さい時からものすごく好きで。思い出深いのは高校生のとき。家族旅行で宿泊したホテルにグランドピアノがあって、誰もいなかったからショパンの「英雄ポロネーズ」を弾いたんです。いつの間にかたくさんの人が集まってきて、弾き終わると拍手をもらって。それで人前で演奏する楽しさや快感を知ったんです。そのあとギターを練習して、大学時代には「カントリー・クロップス」というバンドを組みました。

 それでも、やっぱり一番好きなのは海と船(笑)。だから、造船とか船に関わる仕事がしたいと思っていたら、そんな僕に向かってバンド仲間の一人が、「バカだなー。俳優になって一旗揚げればお前の好きな船だって買えるぞ。せっかく上原謙という〝のれん〟があるんだから利用しないでどうするんだ」って。船が買えるなら俳優になろうと決心したんです。その仲間からのアドバイスがなかったら芸能の世界には入っていなかったかもしれません。

 幸い役にも恵まれて、デビューの翌年には、僕の代名詞ともなった「若大将シリーズ」がはじまりました。歌やギター、海、スキーなど、得意分野をいかんなく発揮し、シリーズは10年にわたり、17作品にも及びました。ほかにも、黒澤明監督の「椿三十郎」(1962年公開)や「赤ひげ」(65年公開)にも出演させていただきました。撮影が大変だったのは、「八甲田山」(77年公開)。マイナス40度っていう記録的な寒さの中、撮影の初日から3人も凍傷になるほど過酷な現場で、夜は近くの温泉旅館に泊まったけど、昼は食事も雪の上。おにぎりが凍ってしまうくらい寒い。穴を掘って風よけを作り、雪の上にコートを敷いて寒さをしのいでいたんです。今みたいにダウンコートもない時代。「海の男」の僕としては、本当につらい撮影でしたね。

1961(昭和36)年、24 歳のころ、自宅近くの茅ケ崎の海岸で撮られた貴重なプライベートの加山さん。(提供/朝日新聞社)

■カミさんには感謝してもしきれない

「加山雄三は苦労知らずで、順風満帆の人生だった」って思う人もいるかもしれません。でも実際は、大変なこともたくさんあったんです。

 30代のころ、僕が取締役になっていた茅ケ崎のリゾートホテルが倒産して、23億円もの借金を抱えてしまいました。10年でなんとか借金を返済することができましたが、カミさんと結婚したばかりの時期で、1個の卵を夫婦2人で分けあって、卵かけご飯を食べたこともありました。

 37歳のときは北海道のスキー場で圧雪車のキャタピラに巻き込まれて、あわやという大けが。

 ここ最近も自宅で筋トレ中に腰椎椎体骨折してしまったり、2020年には誤嚥がもとで小脳出血を発症して救急搬送。一命は取り留めたものの、治療に専念するため芸能活動を一時休止しました。しばらくは後遺症が残って、完全に復帰するまではリハビリの毎日。自然に出血が止まったので、手術せずに薬で治療でき、脳への影響も少なかったのは、不幸中の幸いです。

 いずれのときも、懸命に看病して、落ち込む僕を励まし、ときには叱咤激励して尻を叩いてくれたのがカミさん。彼女がいなかったらいまの僕はない。だから彼女には感謝してもしきれない。

 そして、つらい思いをして乗り越えられたからこそ、いまがある。心底そう思っているんです。

 長年モットーとしているのは〝人生の三カン王〟。「関心、感動、感謝」です。つくづく思うのは、幸せを「幸せだ」と感じる心がなければ、幸福にはなれないということ。

 いま、生きていることに感謝し、大勢の人に支えられていることに感謝する気持ちを忘れないこと。そして関心、感動、感謝の気持ちをもって、幸せと感じたことは口に出して「幸せだなぁ」って言うことが大切なんだと思っています。

(構成・文/山下 隆)

かやま・ゆうぞう/1937(昭和12)年、神奈川県生まれ。父は俳優の上原謙、母は女優の小桜葉子と芸能一家に育つ。幼少時代からスキー、ピアノ、作曲と才能を発揮、スキーでは国体にも出場した。慶応義塾大学卒業後、東宝と専属契約を結び、俳優デビュー。「若大将シリーズ」で国民的スターとなる。歌手としても「君といつまでも」をはじめヒット曲多数。得意の料理についてまとめた近著『食べた人が笑顔になるそれが最高の喜び 幸せの料理帖』(KADOKAWA)も話題に。