終戦後、女学校に行くも女優になりたくて、エキストラや小さな役をやりながらチャンスを待ちました。ジャズにハマり、18歳のころに女性バンド「ウエスタン・ローズ」を組んで。進駐軍のクラブに出入りしてお金を稼ぎました。その後は軽演劇の舞台に出るようになり、女3人でコントをやったりして。人気あったんですよ。

29歳で結婚して、生まれた娘が2歳のころ、病院で知的障がいがあると診断されました。いまと違って情報もないし、最初はびっくりしてね。正直、私にも恥ずかしいという気持ちがありましたよ。こればかりは、育てたことがない人にはわからないと思う。知的障がいのある子どもを育てるのは、そりゃあ大変なものです。

次女が生まれたあと離婚したんですが、そのころは喫茶店もはじめていて、子育てをしながら店に立っていました。そうしたらNHKの人が「喫茶店のママで終わらせたくない」とスカウトにきてくれた。

得意の喜劇的な演技で「スターにしてあげる」なんて言うから、三の線の女優で復帰しようって私もすっかりその気になってね。

ところがその条件として、子どもを手放せ、と言われてしまった。当時は里子に出すなんてことが当たり前に行われていたからね。次女は健常者だし、いくらでももらい手があるって。じゃあ長女はどうするんだ。どっちも手放すなんてとんでもない、と断りました。

<後編につづく>