田尾安志氏は同志社大3年春に打率.548…現在も関西学生野球連盟の記録

 打者としての評価が高まった。元中日、西武、阪神外野手の田尾安志氏(野球評論家)は1974年の同志社大学3年春から投手と打者の二刀流選手になった。渡辺博之監督の発案だったが、いきなり春のリーグ戦で首位打者に輝いた。打率.548。これは50年経った令和の今でも関西学生野球連盟の「1季個人最高打率」記録なのだからすさまじい。だが、大学時代はすべてが順調だったわけではない。怪我との闘いもあった。

 高校時代から打撃でも非凡なものを見せていた田尾氏とはいえ、大学1、2年生は投手練習が中心。それが投打の二刀流にチャレンジした途端に、いきなりリーグ記録の高打率で首位打者だ。「ずっとバッティング練習ばかりやっていても、そんなに変わらないんだなっていうか、そんなにやらなくても打つ人は打つなっていうかね」と田尾氏は笑いながら話したが、まさに、すごいとしかいいようがない結果だ。しかし、その後に思わぬ試練が待ち受けていた。

 3年春のリーグ戦で同志社大は2位だったが、田尾氏は6月の日米大学野球選手権大会日本代表に2年連続で選出された。そこで一塁手として出場した際に右膝を痛めるアクシデントに見舞われた。「守っている時に、打者走者が僕の右足にぶつかってきたんです」。送球がそれて、体を伸ばして捕球しようとした時に、体重100キロは軽く超えていた大柄な米国選手に“タックル”された形。激痛だった。

「靱帯を痛めて、そこからちょっときつかったですよねぇ」。右膝の内側側副靱帯の損傷。そこから治療に専念して、秋のリーグ戦には何とか間に合わせたが、さらに悪夢の出来事が起きた。「開幕戦に投げたんですが、その試合でホームにヘッドスライディングした時に肩を痛めてしまったんです。そこから1年くらいは投げられなかったんですよ」。結果、自動的に打撃専念となった。「打つ方だけでも、ってことでね」。

3年秋は肩痛で投球不能も…外野のポジションを変えながら出場

 問題は守りだった。「肩を痛めているから、外野を守っても送球がカットマンまで届かないくらいだった。下から投げたりとか、そんな状態でしたね」。打球が飛びそうなところの守りはできるだけ避けたという。「このバッターなら右方向に打球が飛ぶなと思ったらレフト、レフトに飛びそうならライトって感じで監督が僕のポジションを変えたんですよ。1試合で何回も変わって守ったこともありましたね」。

 左肩の状態を気にしながら、神経をすり減らしながらのプレーになったことだろう。それでいて打撃では数字を残したのだから恐れ入る。秋のリーグ戦は打率.404。凄すぎた春の.548には及ばなかったものの、堂々、2季連続首位打者となったのだ。秋はチームもリーグ戦に優勝。11月の明治神宮野球大会では準決勝で中央大に敗れたが、怪我で投げられなくなった代わりに田尾氏のバット術へのプロの評価はどんどん高まっていった。

 田尾氏は打者としてチャンスを与えてくれた渡辺監督に感謝する。「監督はプロで10年やった人でしたからね。ピッチャーもやっていたそうですし、そういうふうにできると思ってくれたんでしょうね」。渡辺監督は1950年に大阪タイガース(現阪神)に入団し、1954年には打点王にもなった外野手だったが、1年目は投手として1試合だけ1軍マウンドにも上がっていた。そんな指揮官の眼力のおかげで田尾氏は打撃の素質を開花させたわけだ。

 二刀流挑戦で田尾氏の野球人生は変わったといってもいいのかもしれない。怪我で投球不能になり、外野の守りも満足にできなくても打者として試合に出してもらえたことも大きかったかもしれない。それこそ、同志社大学で渡辺監督に出会っていなければ、どうなっていたか。1975年、大学4年の田尾氏は主将になった。大学最後の秋は「主将兼4番兼投手」で締めくくることになる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)