人生にそう何度もあることではないからこそ大変な遺産相続。失敗しないためにも事前によく調べ、家族で話し合っておく必要があります。たとえば、テレビドラマなどでよく耳にする「相続放棄」。メリットとデメリットはご存じですか? 豊富な実務経験がある税理士でマネージャーナリストの板倉京さんが、相続放棄で注意すべき点を紹介します。

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相続放棄を勘違いすると面倒なことになる可能性が

「父の遺産はすべて母にあげたいので、子どもたちはみな相続放棄することにしました」

 相談者の岩井恵さん(仮名・45歳)は、父が他界してひとり暮らしの母のため、きょうだい全員が遺産相続を辞退する「相続放棄」をすることにしたといいます。なんて母親思いなお子さんたちでしょう。

 でも、ちょっとお待ちください!

「遺産をもらってもいいけど、もらわない」

 こういう場合、相続放棄の手続きは必要ありません。それどころか、手続きをすることで、お母さんをつらい目に遭わせてしまう可能性もあるのです。

 相続放棄とは、相続財産をもらうことを放棄する手続きのこと。相続の開始を知った日から3か月以内に家庭裁判所に申し立てをして手続きをします。すると、相続放棄をした人は、もともと相続人ではなかったことになります。

 問題は、この「もともと相続人ではなかった」という点です。つまり、子どもたち全員が相続放棄の手続きをすると、相続の第1順位である子がいないことに。すると、相続人は配偶者(この場合は母)と、第2順位の親(もしくは祖父母)になります。もし親や祖父母が亡くなっていて、第2順位の人がいない場合、相続人は第3順位の兄弟姉妹です。

 岩井さんのケースでは、お父さんの両親はすでに他界していたため、お父さんの弟2人に相続権が移りました。そのため、お母さんと弟たちの3人で、財産の分け方を決めることになるのです。これでは、お母さんに全部の財産を渡せないどころか、嫌な思いをさせてしまうことになりかねません。

 もし、善意でお母さんに全財産を渡したいなら、相続人全員で「母親が全部相続する」という内容の遺産分割協議書を作成してください。「父の遺産はすべて母にあげたい」場合、相続放棄の手続きは不要というより、してはいけないのです。

 相続放棄の手続きが必要なのは、相続財産の中に多額の借入金や保証債務などがあるときです。では、「借金があったら、相続放棄すればいい」という話なのでしょうか?

亡き父に1億円の借金が 相続放棄をしたくてもできないケースも

 個人で町工場を経営していた井上隆さん(仮名・65歳)のケースを紹介しましょう。隆さんは仕事中に倒れて、突然帰らぬ人に。これまで工場経営は順調でしたが、隆さんの腕一本で成り立っていたため、事実上の倒産です。

 後日、妻と娘さんで工場の整理をしていると、借金の返済予定表が出てきました。残額はなんと1億円! 「そういえば、新しい機械を入れるとかなんとか言っていたような……」と娘さん。

 井上さんが家族に仕事の話をしたことは、ほとんどなかったといいます。1億円の借金も、順調に仕事をこなしていけば返せる金額だと考えていたのでしょうが、今となっては返すあてはありません。

「借金は相続放棄すれば解決では?」と思うかもしれませんが、実際はそんな簡単な話ではないのです。相続放棄をすることは、借金だけではなく、自宅などの不動産、現預金、株、投資信託などといった財産もすべて相続しないということ。

 隆さんの妻は専業主婦で、自宅も預金も何もかもが隆さん名義の財産でした。つまり、相続放棄をすれば、これから住む家も生きていくためのお金もすべて放棄するということです。結局、妻は相続放棄をせず、すべての財産を引き継ぐことに。銀行が事情を察して、借金は少しずつでも返済してくれればいいと言ってくれました。

 すでに結婚していた娘さんは、相続を放棄することにします。しかし、これで一見落着……とはいかないのです。

 前述した通り、子どもが相続放棄をすると、第2順位・第3順位の人が相続人になります。このケースでは、両親と唯一の兄弟である兄が他界していたため、兄の子どもたち(隆さんの姪・甥)が代襲相続人となりました。

 隆さんの妻は、姪と甥に連絡をして事情を話し、相続放棄の手続きをしてもらいました。そうしなければ、甥と姪はおじさんの事業の借金を背負わされていたかもしれません……。いや、もしかしたら「借金はいらないけど、財産をくれ!」などと、無謀な申し出をしてきたかもしれません。

 仮に借金があったとしても、たとえば住宅ローンなどの場合、「団体信用生命保険」といって、借金をしている人が亡くなるとローンが消滅する保険に加入している場合は、相続放棄をしても適用されるため、家族が住む場所に困ることはありません。隆さんが借金返済に充てられるくらいの生命保険に加入していてくれたら、こんな苦労をしなくて良かったのにと悔やまれます。ちなみに、相続放棄をした場合でも、生命保険は受け取ることができます。

 隆さんのケースは、比較的早くに借金の存在に気づけたため、相続放棄の手続きをすることができました。しかし、借金が見つかったときにはすでに相続放棄の期限(相続開始を知った日から3か月以内)が切れているという人もいます。

 家族が亡くなったあとに、思わぬ借金に悩まされるのはつらいことです。「借金がある」なんて言い出しにくいことかもしれませんが、事前に家族でしっかり話し合っておくことをおすすめします。

板倉 京