つい先日まで、賃金が上がらないことが社会問題になっていましたが、一転して現在は賃上げ競争とも言うべき状況になってきました。

 図1は連合(日本労働組合総連合会)が集計した、賃上げ率の推移です。2024年分の値は4月2日時点の中間集計値であり、最終集計値ではありませんが、5.24%です。このままで推移すると、1991年以来33年ぶりの大幅な賃上げになりそうです。

●そもそも賃上げとは何か

 賃上げとは一般に、定期昇給による賃金上昇と、ベースアップによる賃金上昇を指します。

 定期昇給とはあらかじめ労働協約(労働組合と会社との間の約束)や就業規則で定めた、賃金表に基づく昇給のことを言います。仮に就業規則で、定期昇給について、成績Aは7000円、Bは5000円、Cは3000円と定めているとします。初任給が20万円であるとしたら、入社後一貫してBの成績で5年経った人は、賃金が22万5000円になります。この昇給は働く人にとって、いわば既得権です。

 これに対してベースアップは、賃金水準を一律に底上げすることを言います。初任給を20万円から21万円に上げる、5年目の賃金を22万5000円から23万5000円に上げるというように、成績にかかわらず一律に(この場合1万円)底上げします。

 この会社の賃金ベースは、一貫してBの成績である場合、ベア前は「賃金=20万+5000×勤続年数」でしたが、ベア後は「賃金=21万+5000×勤続年数」になります。翌年以降もこれが賃金ベースになり、後戻りすることはありません。

 「賃上げ」は定期昇給とベースアップを合わせたもののことを言います。この例では、定期昇給が5000円で、ベアが1万円ですから、賃上げ額は1万5000円になります(図2参照)。

 図3は同じく連合による『2024年春季生活闘争 第3回回答集計結果』(2024年4月2日時点:PDF)による、賃上げの内訳を企業規模別に示したものです。全ての企業規模で、ベースアップ分が賃上げの半分以上を占めています。

 しばしば、小企業は賃上げブームの蚊帳の外に置かれているかのような論調を目にしますが、これは誤りです。「99人以下」でも7270円のベアがなされています。率にすると2.88%であり、24年2月のインフレ率(「生鮮食品を除く総合」の消費者物価指数上昇率)を上回っています。小企業で働く人も、実質賃金(物価上昇率を割り引いた賃金)が上がっています。

●なぜ急に賃金を上げるようになったのか

 それにしてもなぜ、企業は急に賃金を上げるようになったのでしょうか。

 まず、すでに賃金を上げようと思えば上げられる状態にはありました。図4は財務省『法人企業統計』による売上総利益(売上高−売上原価)の推移です。人件費の源泉である売上総利益は最近3年間、顕著に増えています。

 次に「要素価格均等化」の圧力があります。要素価格均等化とは、自由貿易をする国々の間で、生産要素(商品やサービスの生産に用いられる要素。具体的には土地や労働、資本、経営者の能力、原材料などのことをいう)の価格が等しい方向に収れんして行くということです。近年の円安の結果、ドルベースでみた日本人の賃金は2022年、OECD(経済協力開発機構)加盟国平均の78%まで低下しました。ここまで下がれば、日本だけが賃金が低い状況が、是正されても不思議ではありません。

 そして、「効率性賃金」です。企業はもともと賃金を上げる動機を持っています。賃金が低ければ、働く人の職場定着率が下がり、採用や教育訓練にかかるコストが膨らみ、企業はかえって損をします。低い賃金で働いている人は、解雇されても失うものが少ないので、サボりも増えます。高い賃金で働いている人は、それを「もらって当たり前」とは考えず、誠実な労働や積極的な提案という形で会社に恩返しをしようとします。

 もちろん払える範囲での話ですが、賃金は高い方が、企業にとって何かと有利です。このような考え方を、高い賃金は企業にとって効率的であるという意味で、効率性賃金といいます。

●有名企業が賃金を上げるのは「補償賃金格差」

 企業が賃金を上げ始めた理由として「補償賃金格差」も考えられます。

 週刊誌『ダイヤモンド』は、口コミデータを集計して、働き方に関する従業員の不満が多い「ブラック企業ランキング」を発表しています。投稿数と企業規模の間に相関があることを承知の上であえて言いますと、上位は日本人なら誰でも知っているような有名企業ばかりです。

 それらの企業の口コミの内容をみると、「休日出勤が常態化している」「ノルマを達成できないと容赦なくクビになる」「ほぼ強制的にサービス残業をさせられる」「基本給が安く抑えられていて、ボーナスでとんとんになる」などがあり、相当厳しい労働環境であることがうかがえます。

 興味深いことに、この「ブラック企業ランキング」で上位にランクされている企業はいずれも、今年大幅な賃上げを断行することが報道されています。これは補償賃金格差の好例です。補償賃金格差とは、劣悪な労働環境しか提供できない会社は、それを補償するだけの高い賃金を払わなければ働き手を確保できないという説です。

 賃金が高くて、福利厚生が充実しており、なおかつ仕事も楽であるというような、夢のような話が、どこにでもあるはずがありません。

●初任給がいっそう上がる理由

 「ブラック企業ランキング」の上位企業では、既存社員の賃金にも増して、初任給をより一層上げています。いくら将来性があるとはいえ、何の実績もない新入社員の賃金をなぜ上げるのでしょうか。

 まず、経験を積むこと、ベテランになることの、潜在的なメリットが日本全体で低下しています。

 一橋大学大学院の横山泉教授は、年収の変化に対して教育年数、潜在経験年数、勤続年数、産業、パートであるか否か、そして企業規模が、それぞれ与える影響を分析しています。分析によれば、男女の高賃金層、中賃金層、低賃金層のほとんどで、潜在経験年数(学校卒業後の年数)と勤続年数のリターン(賃金を上昇させる効果)が低下しています。その背景には、年功序列に代表される日本型雇用慣行の崩壊や、教育訓練の効果の低下などがあります 。

 第二に、「スキル偏向型技術進歩」の影響があります。企業がスキルの高い労働者の採用を促すような技術進歩という意味です。スキル偏向型技術進歩のもとでは、学歴よりもどんなスキルを持っているか、どんな仕事についているかの方が、賃金をより大きく左右します。

 スキルというと人工知能やデータサイエンスが真っ先に思い浮かびますが、必ずしもそういう先端技術だけではありません。例えば読解力も、賃金に確実な影響があります。そして読解力を単に持っているかどうか以上に、読解力を使う仕事についているかどうかが、賃金を大きく左右します。読解力はベテランも新入社員も大差ありません。

 これは老人ホーム業界に限った話ですが、経済学者のノルベルト・へーリングとオラフ・シュトルベックによると、それまでなかった最低賃金制度が導入され、賃金が上がったことによって、破産が増えたことを示す証拠は見つかりませんでした。筆者は賃金制度のコンサルティングをしていますが、賃金制度改革は不可避的に賃金の増加を伴います。しかしそれによって経営危機に陥った企業は一つもありません。賃金を上げて倒産する会社はないということでしょうか。

著者紹介:神田靖美

人事評価専門のコンサルティング会社・リザルト株式会社代表取締役。企業に対してパフォーマンスマネジメントやインセンティブなど、さまざまな評価手法の導入と運用をサポート。執筆活動も精力的に展開し、著書に『スリーステップ式だから、成果主義賃金を正しく導入する本』(あさ出版)、『会社の法務・総務・人事のしごと事典』(共著、日本実業出版社)、『賃金事典』(共著、労働調査会)など。Webマガジンや新聞、雑誌に出稿多数。上智大学経済学部卒業、早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了。MBA、日本賃金学会会員、埼玉県職業能力開発協会講師。1961年生まれ。趣味は東南アジア旅行。ホテルも予約せず、ボストンバッグ一つ提げてふらっと出掛ける。