iPad miniを除く、iPadシリーズが一新された5月7日のApple Event。イベント用に作られた映像での配慮の少ない過剰演出こそ不評だったが、発表された内容はその不評を払拭する勢いだ。

 人気の「iPad Air」は、一回り大きい13インチモデルが加わり、動画視聴や読書、ゲームなど最も需要が大きい使い方をさらに快適に利用できるように変えている。

 強く握るとペン先からツールが絞り出されるように飛び出てくるスクイーズ操作や、ペン先を回転させてストロークの向きを変えたりできるバレルロールの操作などに対応した「Apple Pencil Pro」は、筆などのアナログ筆記具に劣っていた表現を吸収するだけでなく、無駄なペン先の移動を無くし思考の中断を減らすことにも貢献しそうだ。

 そして「iPad Pro」は、これまでのApple製品の中で最薄なだけでなく、プロの映像クリエイターが膝の上で映像の品質チェックができる美しいタンデムOLEDのディスプレイを備えながら、まだMacにすら搭載されていない最先端の「M4チップ」を内蔵している。

 そんなApple Eventだが、この記事では既に多くの記事で紹介されているiPad Air、iPad Pro、Apple Pencil Proについては、遠からずまたレビュー記事を書くことになると思う。この記事では、それらでは触れない2つの注目ポイントに焦点を当てたい。

 それは、「第10世代iPad」とM4チップだ。

●日本の学校の未来のために頑張った「第10世代iPad」

 筆者がまず注目したいのは、AirもProも付かない標準iPadの最新モデルである第10世代iPadだ。

 2022年10月に発表されたモデルだが、一気に進んだ円安であらゆる海外製品が値上げされている中、何と価格が1万円も引き下げられ、5万8800円(64GB+Wi-Fiモデルの場合/税込み、以下同様)から購入できる。

 これは、日本の多くの学校にとって非常に大きな意味を持つことだ。

 日本では全国の児童/生徒1人に1台のコンピュータと高速ネットワークを整備する文部科学省の取り組み、「GIGAスクール構想」がコロナ禍に入って前倒しでスタート。今では世界に誇れる、最も学習用デジタル端末が普及した国の1つに生まれ変わった。

 このGIGAスクールでは、どのモデルを採用するかまでは定めておらず、学校や教育委員会がWindowsのPCやタブレット、Chromebook、iPadなどから選定して導入している。

 政府から端末の購入費用として、全導入台数の3分の2ではあるが1台あたり上限5.5万円の補助金が用意される(2022年までは4万5000円)。

 しかし、2023年から円安が一気に加速した。10月に発表された第10世代iPadに付けられた価格は6万8800円で補助金の額を大きく上回ってしまい導入が難しく、多くの教育機関は併売されている第9世代のiPadに期待を懸けた。

 しかし今回、Appleは円安がさらに進んでいるのにも関わらず、同機の価格を1万円も値下げすると発表したのだ。この価格と、おそらく今後提供されるであろう教育機関用のディスカウントを組み合わせれば、第10世代iPadは来年度のGIGAスクール用端末として引き続き採用できる可能性が一気に高まった。

 iPadではなく、PCを導入する学校の中には、iPadではPCと比べてできることが少ないのではないかと心配する声もある。しかし、MM総研が2023年に行った調査によれば、89%の教育委員会が「iPadは生徒用デバイスとして十分な性能を備えている」と答えている。

 それどころか研究レポートをまとめる際に、フィールドワークにiPadを持ち出しカメラで撮影して取材レポートをまとめたり、授業中だけでなく部活などでもダンスやスポーツの動きをカメラで撮影してチェックしたりと、iPadは教室の外でも活用される率が高いことが分かっている。

 学校からあてがわれた端末を、学校が決めたカリキュラムの中で、ルールに従って使うといったデジタル端末の導入では、生徒たちも「学校から無理やり当てがわれた勉強用の機械」として端末に愛着が湧かず使う機会が減ってしまう。

 これに対してiPadを導入している学校では、生徒や教員が工夫しながら、新しい使い方を模索していくといった活用が多い。こうした利用であれば、教科の内容を学ぶだけでなく、同時にコンピュータリテラシー、つまりデジタル機器を使いこなす能力も身についていくはずだ。

 iPadは、まさにこういった自由度の高い活用を目指す学校から人気が高い。文部科学省が2023年に行った調査でも、iPadを導入した学校は他の端末を導入した学校に比べて、圧倒的に活用率が高いことが明らかになっている。

 もっとも、この第10世代iPadからは充電端子がLightningからUSB Type-Cに変更された。学校側でLightning用の充電設備などのアクセサリーを既に用意していた場合は、ケーブルの交換を覚悟しておく必要がある(ただ、これはいつかは通る再投資だ)。

 もちろん、第10世代iPadは生徒専用ではない。美しいディスプレイや十分高速なプロセッサを備え、キーボードやApple Pencilにも対応したiPadとして必要な要素全てに対応した製品で、しかも、現行の最新モデルだ。

 GIGAスクールのおかげで、日本だけさらにお得感が増している第10世代iPadは円安時代の救世主的存在と言えるかもしれない。学校で次年度の端末を準備する時期になると、途端に製品が売り切れて何カ月も購入できなくなるので、それ以外の人で欲しい人は早めの購入を決断するのがいいだろう。

●M4チップは夢が広がる最も注目すべきAIプロセッサ

 筆者が今回の発表で、もう1つ注目したのが新型iPad Proに搭載されたM4チップだ。

 まだMacにも採用されていない新世代プロセッサが、先にiPadに搭載される日が来ることを誰が想像していただろう。Apple EventでのiPad ProにM4チップが載るという発表は大きな衝撃をもたらした。

 Appleの公式の性能表は、必ず実機でのテストを元にしており、M3搭載のiPadがないため、M2との比較になってしまうのだが、レンダリング性能で最大4倍、CPU性能で同1.5倍とされている。こうした性能向上に加え、映像プロフェッショナルがモニター代わりに使える高品質のUltra Retina XDRディスプレイを支えているタンデムOLEDという技術も、M4プロセッサによって可能になった技術だ。

 だが、筆者が注目したいのは、こういった一般的な性能ではなく、機械学習などのAI処理を担う「Neural Engine」の性能だ。

 今、ソフトウェアの構造が大きく変化しつつある。これまでのほとんどのアプリは、人間のプログラマーが、どんな動作をするかを考えてプログラミングしたものを実行していたが、これからの時代はアプリの中にAI処理を組み込んで、そのAIに生成させたり、判断させたりして実行するアプリが増えてくる。

 既にPhotoshopに代表されるアドビのツールなども、こういったAI処理を実装して、先進的な写真加工などを実現している。他にも背景の切り抜きや高解像度化、画像や音のノイズ除去、リアルタイムで楽譜を自動作成、雰囲気を保ったまま曲の再生時間を変える処理や画像/映像/3Dモデル/文章の生成など、今後はあらゆる作業にAI処理が入ってくる。

 Apple自身も、今後はこうしたAI処理の開発に力を入れると宣言をしており、6月に開催されるWWDC(世界開発者会議)では、AI処理を組み込んだ新OSが発表になると期待されている。

 そんな時代に突如現れたM4チップは、実はApple最強の「AIプロセッサ」だ。毎秒どれだけの処理をするかを示すTOPSという性能指標があるが、M4は毎秒38兆回のAI処理を行う38TOPSを達成している。参考までにM3は18TOPS、M2は15.8TOPSとされている。

 今後、ソフトウェアのAI化が進むほどM4チップと、それ以前では大きな差が生まれてくるはずだ。

 Appleというと、これまでどうしてもAI関連の開発で出遅れている、という印象を持っている人が多い。

 実は2024年、AIに注力すると宣言してからは「MGIE」 など、いくつか研究者の間では評価が高いAI技術をオープンソースで公開しているが、やはりAI関連の開発といえば、「ChatGPT」のOpenAIやGoogle、DeepMindを含むAlphabet、アドビ、Metaといった会社の方が先行しているイメージを持つ人が多いだろうし、実際にそうだ。

 しかし、それはあくまでもソフトウェアの話である。実はAI用のハードは、Appleも早くから先行投資をしていたということはあまり知られていない。

●M4チップ搭載iPad Proの先に広がる楽しみな未来

 少し前まではAI関連の処理というとGPU、つまりグラフィックス処理用に作られたプロセッサを使って処理を行うのが人気だったが、最近ではAI処理に最適化した「NPU」(Neural Processing Unit)や「AIプロセッサ」という言葉を目にすることが増えた。

 Appleは、他社に先駆け今から7年も前にそうしたプロセッサを世に送り出していたと主張している。2017年に出た「A11 Bionic」のことだ。名前の「Bionic」は、このAI対応を示唆したもので、実際に同プロセッサからApple Neural Engineと呼ばれるAI処理に特化した機構が組み込まれている。

 ただし、A11 Bionicに限って言えば、当時主流だった画像認識用アルゴリズムを研究して、それに最適化したもので、ほぼiPhone 8やiPhone Xのコンピュテーショナルフォトグラフィーの実現が主な目的だった。

 しかし2017年の夏、大きな転機が訪れる。「Attention Is All You Need」という、その後、AIの歴史を変える「Transformer」というAIアルゴリズムを紹介した論文が発表されたのだ。

 Transformerは学習時間が短い上に高精度な結果を出す画期的なAIアルゴリズムで、今日のほとんどの生成AIを可能にした技術だ。

 もちろん、今や生成AIの代名詞的存在であるChatGPTも、この技術なしでは存在し得なかった。そもそもGPTとはGenerative Pre-Trained“Transformer”の略で、「生成系のあらかじめ学習済みのTransformerアルゴリズム」という意味だ。

 OpenAIは、この「Transformerアルゴリズム」に懸けてChatGPTに繋がるGPTを開発、大成功を果たしたが、2017年に研究熱心なAppleのプロセッサ開発チームも同様にTransformerに未来を懸けた。「もし、これからTransformerアルゴリズムが世界を席巻することになった時、我々はそれを処理する上で最高のプロセッサになることを目指そう」と決断したと言われている。

 こうして出てきたApple SiliconのMシリーズだが、これまでAppleは大々的にうたっていないものの、実はTransformerアルゴリズムの実行に極めて向いているプロセッサなのだ。

 少し詳しい人向けに書くと、Appleの研究者は綿密な研究の末、あらゆるデータ型の中でコスト的にTransformerの処理に最も向いているのが「8ビット整数」でのデータ処理だと結論づけて、Apple Neural Engineをそこに向けて最適化したという。

 Appleが宣伝していなかった、そんなMシリーズの隠れた魅力に気がつく人たちが出てきた。

 Mac 40周年記念のインタビューで、Appleのハードウェアエンジニアリング担当上級副社長で次期CEO候補というウワサもあるジョン・テルヌス氏が、2023年くらいから米国で多くのエンジニアがLLM(大規模言語モデル/ChatGPTのような言語処理のAI)を動かすのにMacが向いていることに気がついて話題となり、Mac上でローカルLLMを実行することが流行し始めたという(ChatGPTのようにインターネット経由で利用するのではなく、アプリとしてMac本体にインストールすること)。

 筆者の観測範囲では、2024年の3月くらいから日本のソーシャルメディアでもMacがローカルLLMの実行に向いていると気がついて話題にするエンジニアが増えているのを見かけている。

 もっとも、彼らが使っているのはMacに搭載されているM2やM3シリーズだ。

 これに対してiPad Proに搭載されるM4チップは、既に述べたように38TOPSと飛躍的に性能向上をしている。

 残念ながらMacと違ってiPad Proでは、オープンソースのLLMなどをダウンロードして、コンパイルしたり、実行したりとMacほどの自由度はない。だから、MacのようにエンジニアがローカルLLMの実行環境としてiPad Proを買うことはないだろう。

 とは言え、今秋以降にAI最適化が行われたiPadOSが登場し、2025年以降、その上でAIをエンジンとした次世代のアプリが増え始めることを想像したり、iPad Proの高性能を生かした、これまではできなかったような高度なAIアプリケーションを作る人が出くるのではないかと想像したりすると、かなり楽しみになってくる。

※記事初出時、一部表記に誤りがあり修正しました(2024年5月10日午後1時05分)。