情報収集能力の不足

 勝頼が開戦前日の5月20日に、家臣の今福長閑斎(駿河国久能城代)に宛てた書状から、その理由を窺うことができます。書状からは、信長・家康が長篠城の後詰めにやって来たことを勝頼は当然、知ってはいたものの「(敵方は)大したこともなく対陣している」「策を失って、一段と逼迫している」と認識していたことが分かります。

 織田・徳川連合軍が、すぐに長篠城の救援に来ずに、馬防柵を敷設して、防御の姿勢を見せたことを、勝頼は「一段と逼迫」と見て取り「信長・家康両敵」の陣に攻め込んで、討ち滅ぼそうと考えたのです。勝頼は、織田方の兵数(3万)をしっかり把握していていなかったのではと思われます(織田軍が窪地に隠れていたことが功を奏したと言えるでしょう)。

 武田軍の情報収集能力の不足が敗因と考えられます。仮に、勝頼が連合軍の兵数をある程度、把握していながら、決戦を挑んだとしたら、どこかに、自軍の方が強い、連合軍は大したことはないという慢心があったのではないでしょうか。

 勝頼の父・信玄は「風林火山」の軍旗を使用したことで有名です。「風林火山」の原文の出典は『孫子』(中国春秋時代の兵法書)に基付くとされますが、その『孫子』のなかには「彼を知り己を知れば百戦殆からず」という著名な一節があります。「戦いの時には、敵情を知ること、そして客観的に自分(軍)を知ることが大切である」ということです。

 更に同書には「勝ちを知るには五つあり」として「戦うべき時と戦うべからざる時を知る者は勝つ」「大軍と小勢の運用方法を知る者は勝つ」「上下の将兵の意思が纏まっている者は勝つ」「味方の準備ができた上で、準備ができていない敵を待ち受ける者は勝つ」「将軍が有能で、君主がその干渉をしなければ勝つ」とも記されています。

 勝頼は決して、無能な当主ではありませんが、長篠合戦においては、脇が甘かった、油断していた面があったと考えられます。長篠本戦では、織田・徳川連合軍の鉄砲の威力が、武田軍を破りました。しかし(何度も繰り返しますが)、そもそも、勝頼軍が戦いを正面から挑んでいなければ、大負けすることはなかったのです。

 信長は武田本軍が進出し、河を背にして布陣していることを「天の恵み」(『信長公記』)と考えたと言います。つまり、この時、信長は自らの勝ちを確信したのです。長篠合戦は、織田・徳川連合軍の鉄砲が勝敗を決したように言われますが、実は勝敗は開戦以前に決していたのでした。勝頼が「戦うべき時と戦うべからざる時を知」らなかったことが武田軍の敗因と言えましょうか。

(主要参考文献一覧)
・柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書、2006)
・笹本正治『武田信玄』(中公新書、2014)
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021)

(濱田 浩一郎)