八月十八日政変への過程―前日17日の動向

 高崎正風は中川宮に対して、いかなる難問が後日になって薩摩藩に起こったとしても、それは構わないので、当初の予定通り中川宮が総指揮を執り、薩摩・会津両藩による政変断行の決意を固めることを要請した。さらに、近衛忠煕および二条斉敬にも参画の決断を迫るとし、もしも、近衛が聞き入れてくれない場合は、高崎の一命に換えてもお諫め申し上げると、並々ならぬ決意を言上した。

 高崎の政変への執念が功を奏し、宮はその覚悟であれば、自身も政変参画の決意をすると明言した。八月十八日政変の黒幕である、中川宮と高崎正風が本格的に始動を始めたのだ。ちなみに、薩摩藩の最高権力者である島津久光は、自身の名代として中川宮を指名していた。高崎は中川宮の判断を久光の判断と受け止めて、行動していることを付言したい。

 高崎は会津藩に二条斉敬の説得を依頼し、二条は同意すると回答した。高崎自身は近衛忠房を説得したところ、16日には躊躇していた近衛であったが、驚くほどに一転して政変参画への決心を述べ、さらに「この上は、近衛忠煕・忠房父子ともに参内して尽力しよう」とまで決意を伝えた。

 二条斉敬、近衛父子、徳大寺公純を含む中川宮派の連携がなり、高崎は会津藩と最終政変計画を策定した。「会来る 宮江出 陽明江出 策定ル」(「高崎日記」、8月17日条)とあり、簡潔な記述の中に政変前日の慌しい激動の一日が凝縮されていることがうかがえる。

政変当日の推移

 文久3年8月18日の午前1時以降、中川宮派(宮を始めとして二条斉敬、近衛忠煕・忠房父子、京都守護職松平容保、徳大寺公純)、京都所司代稲葉正邦が続々と参内を始めた。そして、会津・淀・薩摩の各藩兵による禁裏守衛配備が午前4時には完了した。この段階で、在京諸藩主の参内および両役(議奏・武家伝奏)、国事御用掛等の参内停止を命令した。

 この時点で朝議があり、三条実美以下の即時攘夷派廷臣の参内・他行・他人面会禁止、国事参政・寄人の廃止、長州藩の堺町御門守衛停止、藩兵の京都追放が決定したのだ。11時頃に参内した関白鷹司輔煕は、朝議決定を否定して即時攘夷派の復権を画策した。しかし、朝議決定を覆すことは叶わず、夕刻には鷹司邸に参集していた即時攘夷派が妙法院まで退散したため、政変は無血による成功を収めた。

 当日の主役は、中川宮および松平容保であり、薩摩藩は僅か150の兵力を動員できたに過ぎず、その役割は政変の画策に止まったと言えよう。しかし、結果として、以下に述べる七卿落ちに伴って、長州藩の主力が退京し、中央政局は新しい国是(対外方針)をめぐって次なる展開に移行することになった。