ピアノと身一つで誰にでもなれる、モノマネの女王“ミッちゃん”。デビューしてすぐに人気番組への出演をつかんで以来、ずっとスター街道をひた走ってきた。たったひとりで約1万人を爆笑の渦に巻き込む、前代未聞の武道館ライブももう10周年。

そんな彼女の変わらぬ原点は、家族だ。普通が一番、と頑なだった父。最後に贈ってくれた言葉がミチコを今日も奮い立たせる。これまで語られなかった、清水家の愛の歴史がここに―─。(全2回・前編)

「さんずいにブルー(青)と書いて、清水ミチコです!」

観客の歓声と笑いに包まれ、全国ツアー「清水ミチコアワー 〜ひとり祝賀会〜」が幕を開けた。

会場には、50代夫婦、親子連れなど老若男女が集まり、満席状態。

ミネラルウオーターのボトルを持つだけで拍手が湧き起こる。

「じつは昨年の武道館ライブで、私がボトルを持つとお客さんがイタズラで拍手をしたんです。その様子がWOWOWで放送されてから、謎のルールが生まれたんです」

清水ミチコ(63)は、うれしそうに語った。

毎年恒例になっている武道館ライブも、先日の1月3日に、10周年の節目を迎えたばかり。だが、そもそも武道館はミチコが目指していた舞台ではなかったという。

「じつはあるアーティストが武道館ライブをドタキャンして、急きょ、イベンターさんから『代打をお願いできないか』と穴埋め的に頼まれたのがきっかけなんです。

収容人数が1万人ですから怖さもあったんですが、イベンターさんに『こちらもできない見込みの人には頼みません』と言われて決意。1回目はゲストに登場してもらったんですが、2回目からはひとりでやるようになったんです」

ツアーでは、意識的に最新のニュースを取り入れているのも特徴だ。昨年、大阪のフェスティバルホールでの公演は、奇しくもプロ野球の阪神タイガースとオリックス・バファローズの優勝パレードと重なった。

「私のファンがクラウドファンディングでお金を集めて、パレードまで用意してくれて……。大阪、ありがとう!」

こんなボケで会場の空気を作ったのだった。

こうしたステージは、8年ほど前からツアーに参加している、清水家の家業・JAZZ喫茶を継いでいる弟の清水イチロウさんや、帯同している夫らと作り上げている。

そういえば、この日、リハーサルで将棋の藤井聡太名人のモノマネをする際も、こんなやりとりがあった。

「なんだっけ。藤井さんが言っていた四文字熟語」 「?」 「誰か、教養がある人はいないの?(笑)」 「“雲外蒼天”だって。スマホで調べた。意味はわからないけど」

和やかな雰囲気で、家族で作り上げているステージなのだと感じた。

「たしかに、両親はお笑いのセンスがあったし、ネタを思いつけば夫や娘に最初に見てもらっていました。その娘が、毎回、夫婦で武道館に来てくれるのも励みです。私の芸のルーツは、家族にあるのかもしれませんね」



■「うれしさで足がふるえた」ーー。 笑いの味を覚えた中学の応援演説

岐阜県は飛驒高山で、お菓子やケーキ、果物を取り扱う清水屋商店の長女として、清水ミチコは’60年1月27日に生まれた。

「両親はふだんから楽しい人たちで、人の悪口を言うときも、夫婦して『もっとうまい言い方はないだろうか』『一言で特徴を表したい』って真剣。悪口っていっても、笑いがあると嫌な感じがしないんですね。私の芸の根底には、両親の姿があるかもしれないです」

テレビを見ていても、両親共に出演者の笑いには厳しく、辛辣な批評も出るほど。

「そんな両親を喜ばせようと、学校で人を笑わせた話をすると『やめなさい』『お前の笑いは寒い』って、すごく叱られるんです。“普通が一番”という昔ながらの考えの人たちなので、私は面白さより、勉強をして、真面目に育つことを求められていたんですね」

だから、当時、女子小学生には定番だった山口百恵や天地真理、桜田淳子のモノマネを披露するのは、同級生の前に限られていた。

「友達の前でピアノを弾いて、一緒に歌うことも。幼少期にピアノ教室に通っていたんですが、練習曲はつまらなく感じて、すぐにやめてしまったんです。でも、基礎は学んでいたので、テレビから聞こえる歌謡曲やCM曲を、耳コピで弾いてました」

忘れられないのは、中学1年生のとき。生徒会長に立候補した先輩の応援演説だ。

「真面目な口調で、ふざけたスピーチをしたんですね。みんながおなかを抱えて笑うほどウケて、会場が揺れたんです。壇上から下りるとき、バランスを崩さないように床の木目に沿って慎重に歩かなければならないほど、うれしさで足がガクガクでした」

中学校の卒業式では、卓球部の後輩2人が泣きながら駆け寄ってきた。男子なら第2ボタンを渡す準備をするところだが、求められたのは百恵ちゃんのモノマネ。

「自分は、人に喜ばれる“何か”を持っているのかもしれないと思った体験でした」

実家では、空き店舗を改装して始めたJAZZ喫茶が軌道に乗り、3店舗ほど出店。長女であるため、いずれは1店舗を継がなくてはならないという思いから、短大の家政学部に進み、家庭科の教職課程も学んだ。

「上京して19歳のときに、ずっと好きだったタモリさんのライブに行ったんですね。お笑いと音楽を融合したステージに魅了され、ネタを考えていらっしゃる作家さんにファンレターや自分の作品を送ったんですが……、お返事はいただけませんでした(笑)」

’80年代に入ると、短大の同級生はブランド品を身につけ、ディスコに旅行に明け暮れていたが、ミチコは対照的に、深夜ラジオやパロディ雑誌に、せっせとはがきを投稿する地味な毎日。

家庭科の教員免許も取得し、短大卒業を控えるころになると、実家の両親からことあるごとに「飛驒高山に帰って、喫茶店を手伝ってほしい」と電話がかかってくる。

だが、刺激のある東京を離れたくない。デリカテッセンのアルバイトを見つけたときも「飛驒高山にはない店だから、修業のつもりで働いてみるね」と理由をつけて、実家に帰るのを延期した。

「ここの店長が恩人。『どんなことが好きなの』『休みの日に何をしているの』って、私に興味を示してくれるんです。それでお笑いが好きで、ラジオにも投稿していると言うと、『素晴らしいことじゃない』と、ラジオのディレクターだった親戚の方を紹介してくれたんです」

バイト先の店長が、自分ですら気づかなかったお笑いへの情熱を掘り起こしたことで、“趣味”としてではなく“仕事”として捉えるようになった。

「隣の住人に聞こえないように、布団にもぐりながら桃井かおりさんのモノマネをしたりして、25分にまとめたテープをディレクターさんに送りました。すると、気に入ってもらえたみたいで、ラジオでクニ河内さんのアシスタントを務めることに。東京で録音するものの、放送されるのは福岡や宮崎などローカルなんですが、私にとっては大事件でした」

こうした経験を積み、渋谷の老舗ライブハウス「ジァン・ジァン」でワンマンライブのチャンスを得た。そのときに来客したのが永六輔さんだ。

「遅刻したうえに、大柄な体にダウンジャケットを着込んでいたものだから、ものすごく目立って。次の日に、ライブハウスの人から『永さんがお会いしたいと言っています』と連絡があったときは、なんて褒められるのかなって期待していたんですが、めちゃくちゃ叱られた(笑)。『芸はプロだけど、生き方はアマチュア。ライブが終わってお辞儀するとき、靴の先が楽屋に向いていたぞ』など、礼儀や常識を教えてくれました」

永さんとの出会いによって、テレビ局スタッフともつながり、ついには『笑っていいとも!』のレギュラー出演を射止めたのだった。



■子どもから届いた手紙に《やる気がありませんでしたね》ーー。挫折と転機の『夢で逢えたら』

まさに公私共に順調すぎるほど順調。’87年に『笑っていいとも!』のレギュラー出演を果たす直前には、ラジオ番組でディレクターを務めていた男性と結婚。

「私はわりと張り切ったり、落ち込んだり、すごく波がある性格なので、夫のように穏やかな人が合うんでしょうね。『デビューしたてなのに、もう結婚しているのか』って面白がられました」

実家に帰ってこいと電話してきた両親も、娘が結婚したうえ、『笑っていいとも!』に出演したことで、何も言わなくなった。

「幼いころから“女の子がお笑いなんて”という両親でしたが、手のひらを返したように応援してくれるようになりました(笑)」

まもなく妊娠したミチコは、おなかが大きくなっても番組への出演を続けていた。

「冗談でおなかを押さえて『うっ、生まれる!』って言うと、みんなびくって驚いて笑うんです。タモリさんにもかわいがられたし“すごいな、自分。ここまで上り詰めた”って、すっかり天狗になっていました」

こうして長く伸びた鼻をへし折ったのは、若き日のダウンタウンやウッチャンナンチャンが出演した、’80年代を代表するバラエティ番組『夢で逢えたら』(フジテレビ系)だ。

「チヤホヤされていただけのサブカル少女が、お笑い猛獣の檻の中に放り込まれたような感じ。私は今も昔も、事前にネタをしっかり作り上げるスタイルですが、あの番組ではバンバン、アドリブが飛んでくるんです。その応酬に適応できず“今日も一言もしゃべれなかった”って落ち込む日々でした」

収録の日は胃が痛くなるし、スタジオに行く足も重くなった。

「ある日、私が部屋に入るとスタッフがパッと何かを隠したんです。トイレに行く隙に隠したものを見ると、子供の手紙で《清水ミチコさんは、今日もやる気がありませんでしたね》と書かれていました。子供にも見抜かれてると思うと、立ち直れませんでした」

夫も、当時を振り返る。

「みんなの輪の中に入って、何か言うんですが、声が小さくて聞こえないんです。それで隣の人が、妻と同じことを大きな声で言うと、すごくウケる。面白いことは思いついているのに、自信がないせいで伝わらないようでした」

そんなとき、ミチコは試行錯誤して新しいキャラクターを生み出したことで、少しずつ自信を取り戻せたという。

「後ろ姿は美人だけど、振り向くとそうではない。さらに性格も悪かったら面白いんじゃないかと誕生したのが、伊集院みどりというキャラ。控えめな芸風でしたが、バンバン前に出る芸風にも挑戦すると、すごいウケたんです」

豪華メンバーのなかでも突出した人気を誇るキャラに成長したことで、失いかけた自信を取り戻したミチコは、ますます多忙を極めることになる。

「娘が幼いときは、私がお化粧をすると仕事に行くんだとわかって、泣かれました。でも、性格は夫に似て穏やかで、親を困らせるようなことはありませんでした」

娘が小学校3年生のときの三者面談でのことだ。なぜか担任が「あとはお母さんと話があるから」と、娘だけを最初に部屋から出してしまった。

「それで私に『どうやったら、あんないい子に育つんですか?』って聞かれて。それくらい先生の言うことをしっかりと聞いてたみたいなんですが、私としては“いい子ぶっている”と周囲から反発されないか心配なくらい。『勉強しなさい』と言っても『もうやった』という感じだったので、お母さんぶったことを、もっと言いたかったくらいですね(笑)」

そんな“できた娘”には、新ネタも披露。

「ネタを書いたり練習するところを見られるのは恥ずかしいので、部屋のドアに鍵をかけているんですが、完成したネタは娘や夫に見てもらうんです。反応がよければテレビやライブで使いますが、悪ければ修正。私にとって、最初のお客さんなんですね」

うして、モノマネのレパートリーも増え続けたのだ。

【後編】清水ミチコ 次回の武道館ライブは「AIと“共演”したい」へ続く