千葉県で勇将・本多忠勝について講演をしてきたというメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』著者の早見俊さん。その講演後に案内された万喜城跡で、時代小説の名手として知られる早見さんでさえ知らなかった「史実」に遭遇した際の思いをつづっています。

本多忠勝と土岐頼芸

先日、千葉県大多喜町で講演をしてきました。

拙著、「ふたりの本多 家康を支えた忠勝と正信」(新潮文庫)について話しました。戦国ファンならお馴染み、本多忠勝は家康股肱の臣、徳川四天王に数えられる勇将です。大多喜町は忠勝が領主となり、城と城下町を築いた地とあって、今でも忠勝への尊敬、愛情の念は強く、毎年十月には忠勝祭が催されています。

講演会場は忠勝愛を抱いた人々で満席、町長も来場してくださいました。講演内容は拙著に沿い、本多忠勝と正信を対比して語りました。

本多忠勝と正信、共に家康を支えた臣でありながら正反対、水と油のふたりです。忠勝は勇猛果敢、数々の合戦でスーパーマンのような大活躍をしました。武田勢から、「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭と本多平八郎」と称えられた程です。

一方、正信は合戦での活躍は見られず、家康の側近くで様々な謀略を練り、政治面で貢献しました。家康の側近くに仕えることから自分を律し、禄高は一万石以上を望みませんでした。高い禄を得ては妬みを買う、権力と財力を持ち合わせてならじ、と自制したのです。

陽の忠勝、陰の正信、武の忠勝、智の正信といったところでしょうか。

講演は無事終了し、その後に思いがけない史実に遭遇しました。主催者の方に案内して頂き、万喜城跡を訪れたのです。万喜城は忠勝が大多喜城を築城する前に一時居城にしていました。忠勝以前の城主は土岐頼春、美濃源氏土岐氏の一族です。

土岐氏は摂津源氏源頼光(大江山の酒呑童子退治で有名)の末裔で鎌倉時代初期に美濃の土岐郡に土着、室町時代には歴代当主が美濃の守護を約二百年に亘って務めました。

最後の守護頼芸は斎藤道三に追放され、美濃を乗っ取られてしまいます。美濃を追われた頼芸は近江の六角氏や実弟の治頼が城主となっていた常陸国江戸崎に行きます。しばらく江戸崎に滞在した後に上総国の万喜城にやって来たのです。

万喜城跡には頼芸が作ったと伝わる井戸がありました。枯れない井戸だそうです。頼芸は万喜城から武田信玄を頼り、甲斐国に向かいました。武田家に身を寄せ、晩年を過ごしていましたが織田勢の侵攻を経験します。武田家は滅亡し、頼芸は稲葉一徹に保護され美濃に帰りました。

道三に追放されてから三十年の月日が経過していました。

稲葉は美濃三人衆に数えられた美濃の有力大名、頼芸が守護であった頃は配下でした。

頼芸はその年の暮れ、冥途に旅立ちました。享年八十一の大往生です。流浪中、美濃を乗っ取った斎藤道三は息子に討たれ、斎藤氏も信長に追われます。最後に頼った武田家も信長に滅ぼされ、その信長も本能寺で自刃、時代は激動したのです。

土岐家の歴代当主は鷹の絵を描くのが得意で頼芸は特に優れていました。三十年に及ぶ流浪生活中にも頼芸は鷹を描き続けたでしょう。

思いがけず土岐頼芸の足跡に触れることができ、岐阜県出身の筆者は感慨深いものがありました。

image by: Shutterstock.com

MAG2 NEWS