俳優中村優一(36)が19日公開の映画「YOKOHAMA」で総合プロデュースと監督に初挑戦している。生まれ育った横浜を舞台に不条理な世界を描く3部作「贋作」「横濱の仮族(かぞく)」「死仮面」のオムニバス。「贋作」では出演、「死仮面」は監督に挑戦した。プロデューサー、俳優、そして横浜について聞いてみた。

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「YOKOHAMA」は全部で1時間50分の長さ。3本全てが、それぞれ長いバージョンを作れる密度の作品だ。

「それはうれしいですね。ただ、真ん中の『横濱の仮族』は、ヨリコジュン監督が全編1カットで、自らカメラを手持ちで撮っています。長くなると、カメラを持ち続ける監督の手の限界がありますね(笑い)。」

奇妙な愛をクールに描いた「贋作」、不条理な迷宮に入り込んだ「横濱の仮族」、狂気の世界を映し出した「死仮面」。オムニバスだが、3本の作品のテイストが全く違う。

「そうですね。それが狙いというか、『横濱の家族』が、ちょっと見たことない作品だと思うんですよね。なので、見ている人が『最後の作品はどうなるんだろう』と考えるみたいな順番で、展開を考えました」

作品の舞台に選んだのは、自身の生まれ育った横浜。

「元々、横浜を題材として何かやりたい気持ち、作品を作りたい気持ちがありました。最初なら、普通はヒューマンとか温かい話をやるべきだと思ったんですけど、僕が好きな映画がどちらかというとちょっと後味が悪い作品。自分が好きなテイストの作品を組み合わせてやっていこうというということです」

横浜から離れられない。

「横浜っていうのは、そうですね…結局、今も横浜に住んでるんです。途中、ちょっと東京には住んだことあるんですけども、結局は人生、横浜で最初から最後までいるんじゃないかなっていう気持ちはありますね。やっぱり、楽しいことも辛かったり悲しかったりすることも、横浜で味わったというか。子供の頃っていうかね、東京に行って横浜に帰って来ると、横浜の匂いというか、空気が違かったりするんで、やっぱり横浜の方が好きだなって思いますね。潮風というか、都会でありながら、海が近くにあって」

2004年(平16)7月、高校2年の時に「第1回D−BOYSオーディション」でグランプリを受賞。翌年、日本テレビ系連続ドラマ「ごくせん 第2シリーズ」俳優デビュー。12年に1度引退したが、14年に復帰した。

「高校生の時から俳優活動をさせていただいた。7年ぐらいで辞めたんですが、ご縁があって俳優に復帰しました。学生の時から俳優として活動をしていて、運良く1回目のオーディションで、事務所も仕事も決まった。結局、俳優の仕事って人間を演じるわけじゃないですか。でも、運良く行ききすぎて、台本に書いてある人間の葛藤とか喜怒哀楽とかを、あまり僕は分からなかったんですね。演じるに当たって不安があったので、1度辞めてみようということでした。そこからは正直、俳優を、またやりたいとか思っていなかった」

デビューから恵まれた俳優人生。だが、気が付くと自分には何もなかった。同世代の若者が経験する苦しみも、それを乗り越える喜びもなかった。

「同世代が大学に進学する時に、僕って何もなかったんですね。もうお仕事を高校2年生の時からしてたので、進路に悩んだことがなかったのが、逆に心配になってきたんです。なので、ちょうど大学に進学して卒業するタイミングだったら、まだ社会復帰が間に合うんじゃないかと。そういうことで1回辞めたっていうのはありますね。本当に一通りご縁です。そして、今所属するG−STAR.PROの社長さんとのご縁があって、俳優に復帰しました。その、ご縁がなければ違う仕事をしていたと思います」

俳優にならなかったら、自身の初映画監督作品「死仮面」で題材に取り上げた特殊メークをやっていたかもしれないと言う。

「小学生の時とかは美容師になりたかったので、もしかしたら専門学校に行ってなっていたかも。母親が美容師だったのでね。それで特殊メークをやっていた可能性もありましたね。ただ、いろいろな出会いがあって、まだ燃え尽きてないところもあったので、もう1回ゼロからやらせてくださいというところでリスタートした感じです」

(続く)

◆中村優一(なかむら・ゆういち)1987年(昭62)10月8日、横浜市生まれ。04年(平6)「第1回D−BOYSオーディション」グランプリ。05年日本テレビ系「ごくせん 第2シリーズ」で俳優デビュー。同年テレビ朝日系「仮面ライダー響鬼」。07年テレビ朝日系「仮面ライダー電王」。08年映画「僕らの方程式」主演。12年に引退も、14年に俳優業再開。23年映画「妖獣奇譚ニンジャVSシャーク」。177センチ。血液型O。