佐々木麟太郎選手について言えば、野球に関してはほとんど心配していません。もちろん日米の違いに戸惑うこともあるかもしれませんが、基本は同じ競技です。言語の壁があっても、共通の話題ならば意外と何とかなるものです。
一方で、やはり学業との両立は相当、大変だろうなと思います。
現在、スタンフォード大で教鞭を執っている日本人教授の知り合いがいます。彼は京都大学を卒業し、1年間英語を勉強して大学院で修士号を取りにスタンフォードにやってきました。日本で言えば「アカデミックエリート」だと思いますが、その彼でも「最初の授業は半分も分からなかった」と言っていました。
語学面はもちろん…授業もハイレベル!
語学的な問題はもちろんのこと、そもそも扱っているテーマが非常にハイレベルなので、授業についていくハードルが高いのです。もちろん大学院と学部の違いはありますし、佐々木選手が何を専攻するかにもよりますが、いずれにせよ大変なことには変わりはありません。
アメフト部には現在、野球部と兼部の部員もいます。彼をはじめ、佐々木選手と授業がかぶるようなアメフト部の若い年代の選手にはミーティングで「佐々木選手と授業で一緒になったら、困っていることがないか声をかけてやれ」と伝えています。
「人生で初めて両親と離れて、寮で生活をするようになって、最初の授業に出た日のことを思い出してくれ。不安がないわけがない。しかも、周りは自分が育ってきた言語じゃない。そんなこと信じられるか? 彼のチャレンジを応援してあげよう」と言うと、皆、自分が初めてスタンフォードに来た日を思い出しているようでした。
ちなみにスタンフォードを含めアメリカの大学では、基本的に専攻は入学後に決まります。それは「人間の興味・関心は在学中に変わるもの」という考え方に基づくからです。これは個人的には当たり前のことだと思いますし、今思うとむしろ入学前に専攻を決めないといけない日本の大学の方が不思議な感じがします。
では、実際には多くのアスリートたちはどうやって授業に順応していくのでしょうか。
大学構内に「アスリート専門のアドバイザー施設」が
実はNCAA1部の大学には大抵、アスリート専門の「アカデミックアドバイザー」というチューターがいます。その中でも、スタンフォード大はかなり手厚いサポートがあります。
大学の敷地内に地下1階、地上2階建てのビルがあり、そのビル丸々1棟がそういったアスリートのサポート部署になっています。そこにチューターが常在して、クラブごとにアカデミック面でのサポートを行います。佐々木選手であれば野球部の担当チューターに様々なことを相談することになりますね。
まずは履修のスケジュールの組み方や、あとはシーズン中には遠征がある場合もあるので、その時の授業をどうするかといったことからになりますね。どうしても出ないといけない授業がある場合は学業優先になるので、そういうときは試合を休むようなケースもあり得ます。ただ、当初はそのチューターとの会話も大変でしょうから、少しずつ慣れていくしかないとは思います。
アスリートの場合、トップクラスの選手だと野球なら2年でドラフトの権利が発生するので、佐々木選手もまずはそこを念頭に置いていると思います。ちなみにスタンフォードの野球部は去年、主力選手が11人もMLBからドラフトされたので今年は「我慢の年」になると言われています。余談ですが、私がいた17年間ではアメフト部の所属にもかかわらず、MLBからドラフトされた選手も3名いました(笑)。
「2年でドラフト」というと、「大学は卒業しないの?」という意見もあるかと思います。
これはアメリカの場合、いつでも大学に戻ってこられる環境があるからです。現役を引退してからでも、もっと言えば現役を続けながらでも大学に復学したり卒業することが可能ですし、それが別に特異な例ではありません。
MLBやNFLの組織側も選手が学び続けることには肯定的ですし、例えばMLBならシーズンオフに大学へ学位を取りに行く場合、その費用をリーグ側が負担する制度もあります。日本では在学の上限として8年で退学になってしまう大学がほとんどだと思うので、一度大学を離れるとそのまま「卒業しない」となりがちです。そこには日米で大きな価値観の差があります。
日米の“学び”に対する「価値観の差」
そして個人的にこの“学び”に対する「価値観の差」は両国におけるスポーツの「立ち位置」の違いに大きな影響を与えていると思います。
今回、佐々木選手がスタンフォード大への進学を発表した際、日本のSNS上などで目立った意見が「仮に野球選手として大成しなくても、スタンフォード大という名門卒業の肩書が手に入るのだから、賢明な選択だ」というような声でした。
ですがこれは裏を返せば「選手として大成しないなら、名門大を卒業でもしなければそれまでのスポーツ経験に価値はない」と言われているに等しいわけです。
前述の通り、アメリカでスチューデントアスリートに対する尊敬の念は非常に大きなものがあります。それはひとえに「自分たちにとって大変な学業面で基準をクリアしながら、その上ハイレベルで厳しいトレーニングを乗り越えてスポーツもやっている」という評価に裏打ちされています。
日本では残念ながらその前提であるはずの「学業面で基準をクリア」ということが疎かにされていることは否めません。
スポーツ推薦で大学に入学し、その競技だけに明け暮れて他の学業には目も向けない。それではアスリートに対する周囲の目は厳しくなるばかりだと思います。
佐々木選手が今回、スタンフォードに入学した価値というのはむしろMLBにしろNPBにしろ、選手として活躍できたときにこそより輝くものだと思います。プロで活躍できるような野球の能力があり、かつ異国の難関校で培った交友関係や経験値があれば、球界を超えて日本社会全体に大きな好影響を与えられるわけですから。
学生の中には肖像権ビジネスで5億円超の契約の選手も…!
実は今回の佐々木選手の入学を聞いた際、喜びと同時にある危惧も感じました。
アメリカでは2021年からNCAAとアスリート側との裁判を経て、学生アスリートが自分たちの肖像権を用いて個別に企業とスポンサー契約などを結び、金銭を受け取れるようになりました。アメフトで言えば、今季の学生No.1選手は年間で5億円を超える契約を結んでいると言われています。もちろん規模の多寡はあれど、佐々木選手も野球の活躍次第でこういった話が舞い込む可能性も十分にあります。
さて、仮にそういった事象を目の当たりにしたとき――日本のトップアスリートたちはどう考えるでしょうか? 日本で大学に行けば、多くの競技で個人でのスポンサー契約はできません。一部の大学を除けば、競技で上手く行かなくなれば社会的な評価もしてもらえないかもしれない。そう考えれば、自ずとスポーツ先進国であるアメリカの大学へ進学する有望なアスリートはどんどん増えていくのではないでしょうか。
個々の選択として、広い世界が視野に入るのはとても喜ばしいことだと思います。一方で、日本生まれ日本育ちのアスリートだった自分としては、母国のアスリートに対するスタンスに一抹の悲しさも感じてしまいます。
文=河田剛
photograph by (L)Tsuyoshi Kawata、(R)Nanae Suzuki