2000年代前半、オリックスが採用した契約金0円の選手たち。彼らはその後、どのような人生を歩んだのか。初回と前回で紹介した高橋浩司と高見澤考史が語る引退後の生活とは? オリックスの番記者を務めた喜瀬雅則氏の著書『オリックスはなぜ優勝できたのか』(光文社新書、2021年12月14日発売)より一部を抜粋してお届けします。(全3回の第3回/初回はこちら、前回はこちら ※肩書、成績はすべて刊行当時)

元オリックスで、松坂からホームランを打った人

 2005年春。高見澤の野球塾がスタートした。

 近所の子供たちが8人集まった。

「プロにいた人が教えてくれるらしい」

 宣伝も何もない。当時はまだ、インターネットもメジャーではない。口コミではあったが、高見澤の熱心な指導ぶりも評判になった。

「元オリックスで、松坂からホームランを打った人」

 その“肩書”も、大きくものを言った。

 1枚のチラシから、新たな人生が開けていった。

 野球塾の塾生が、年々増えていく。

野球塾を買収

「出来高の契約金は、そんなに残っていなかったんで……。貯金、しましたね」

 笑いながらボカしたが、高見澤は野球塾の経営権を購入する。つまり、会社を買ったのだ。

「結構……。莫大(ばくだい)な額でしたよ。出来高分? 超えてました」

 東京では、神宮球場のすぐ近くにあるバッティングドーム内に「神宮校」を開校。さらに千葉でも「匝瑳(そうさ)校」を開校した。

めちゃくちゃ、オリックスでしょ?

 オリックスで一緒にプレーした選手たちを、コーチとして雇った。

「野球しかやってきていないんだったら、野球やったらいいじゃん、って話です。一般的な企業ではないわけで、でも、これって、俺たちのできることじゃん、俺たちしかできないことじゃない、みたいな話で進めていったら、みんなが共感してくれて」

 1993年ドラフト4位指名の内野手・福留宏紀、1995年ドラフト2位指名の投手・川崎泰央、1998年ドラフト3位指名の内野手・相川良太ら、オリックス出身のOBたちが高見澤の経営する野球塾で講師役を務めている。

 私も、番記者時代に取材した経験のある選手たちばかりだった。

「めちゃくちゃ、オリックスでしょ? なんでオリックスなの、っていうお客さんも結構いますよ」

 千葉から、東京から、遠くは茨城からも、野球塾へやって来る。

年商「うん億円」、借金も返済

 その生徒数は、今や630人ほど。年商も「うん億円、ですかね」

 教え子たちは、甲子園にも続々出場している。

 野球塾の会社を購入するためにかかった資金も、すべて返済が終わったという。

 コーチとしての手腕はもちろんのこと、ここまでくると、もはや「実業家」だ。

 生徒たちも「環境」を求めて、野球塾にやって来るという。

 甲子園から名門大学、そして日本のプロ、さらにはメジャーを目指す。

環境なんて自分で作りゃいいじゃんか

 その目標から逆算し、小学校や中学校からクラブチームに入り、高いレベルの野球に取り組みながら、野球塾にも来て、個人的な技術のレベルを上げていく。

「時代ですね。中学生とか高校生たちが『環境』って言うんですよね。でも、環境なんて自分で作りゃいいじゃんか、という話もするんです」

 プロでやりたい。だから、契約金0円で飛び込むという人生の選択をした高見澤だからこそ、説得力もある。

 わずか3年のプロ生活。しかし、苦労を逆手に取ったともいえる野球人生は続いている。

ドラフト同期、契約金0円の高卒選手も訪ねてきた

「ここにも来ましたよ。『どうやってやってるんですか』みたいなね」

 そう笑った高見澤のもとへ、高松から高橋が訪ねてきた。

 高橋は分配ドラフトで入団した楽天を2005年に退団、故郷の高松へ戻ってきた。

 1年ほど、宅配の夜勤で「荷物を下ろす仕事をしていましたね」

 もう、野球は懲り懲りだと思っていた。実家は漁師。高橋も「カンパチ」の養殖を本格的に手掛けるようになった頃だった。

倉庫を改造し、野球塾の「教室」に

「高橋さん、野球を教えてください」

 元プロ野球選手だった高橋のもとへ、近所の子供たちがお願いにやって来た。

 漁師の仕事で使っていた倉庫を改造した「野球塾」は、選手2人からのスタートだった。

 口コミで、その評判が伝わっていく。

 1年もすると、30人の選手を教えることになっていた。

 場所が手狭になってきた。そこで高橋は、父親から資金を借り、さぬき市内で倉庫を借りて、そこを改造することにした。

 5年間教え続けた後、2016年8月から高松市六条町に野球塾を移した。

 生徒数は今や120人。地元の名門・高松商に進み、甲子園に出場した教え子もいる。2021年ドラフトで、巨人から育成8位指名を受けた四国学院大の左投手・富田龍は「高橋野球塾」からプロへ送り出した初めての教え子だという。

漁師と野球塾コーチの二刀流

 カンパチの養殖は、5月中旬から12月まで。早朝から午前中で仕事を終えるので「そんなに負担はないですね」。本業を終えると、午後3時頃に高松の練習場へ来て準備、5時前になると、ユニホーム姿の少年たちが続々と集まってくる。

 クラス別の練習は、午後9時半に終了する。

 それが、一日のルーティンだという。

 練習場は、工場の一角を借りた倉庫を改造したもので、土と人工芝を敷き、LED照明に、空調のファンも設置。縦35メートル、横15メートルの屋内グラウンドになっている。

投資は自分へのプレッシャー

 2000万円の投資額は、満額の契約金とくしくも同じ額だ。

「自分が逃げたくないというか、逃げ道を作りたくない、ここで勝負したいという思いがあったんで、一気にこう、投資したという感じなんです。自分にプレッシャーをかけて」

 野球塾を開校していた“先輩”の高見澤にも、だから教えを請うたのだ。

「契約金0円選手」とは、何だったのか?

「契約金0円」は、わずか3年間しか採用していない。

 たった一人の高卒選手だった高橋は一軍に一度も上がれず、2年目に松坂からホームランを放って脚光を浴びた高見澤も、怪我がたたって、わずか3年でのプレーに終わった。

 2人とも、志半ばでピリオドを打たされたようなプロ野球生活だった。

 球団の狙いは、うまくハマらなかった。

 高見澤も高橋も、その制度に翻弄(ほんろう)され、割を食った形になるかもしれない。それでも、高橋は「そのプロ野球の5年間がなければ、この野球塾も成り立っていない」と断言する。

「キツかった時の経験、プロ野球の経験があるからこそ、それ以上、しんどいこともキツイこともないだろうと思ってやれているのが、今に繋がっています。やっぱり僕はうまくなかったから、一軍に出られなかったというのもあるんですけど、その分、いっぱいいろいろな練習をしていただいたり、いろいろな方たちが教えて下さった部分、それが自分の引き出しとなって、今の選手たちに伝えられる部分であったりもするので、それはそれで、すごく良かったなっていうのもあります。それがなければ、今はないんでね」

 2人の「契約金0円選手」は、今もなお、野球の世界にいる。

「元プロ野球選手」という肩書を、今、自らの人生に生かしているのだ。

文=喜瀬雅則

photograph by Naoya Sanuki