元オリックスで、松坂からホームランを打った人
2005年春。高見澤の野球塾がスタートした。
近所の子供たちが8人集まった。
「プロにいた人が教えてくれるらしい」
宣伝も何もない。当時はまだ、インターネットもメジャーではない。口コミではあったが、高見澤の熱心な指導ぶりも評判になった。
「元オリックスで、松坂からホームランを打った人」
その“肩書”も、大きくものを言った。
1枚のチラシから、新たな人生が開けていった。
野球塾の塾生が、年々増えていく。
野球塾を買収
「出来高の契約金は、そんなに残っていなかったんで……。貯金、しましたね」
笑いながらボカしたが、高見澤は野球塾の経営権を購入する。つまり、会社を買ったのだ。
「結構……。莫大(ばくだい)な額でしたよ。出来高分? 超えてました」
東京では、神宮球場のすぐ近くにあるバッティングドーム内に「神宮校」を開校。さらに千葉でも「匝瑳(そうさ)校」を開校した。
めちゃくちゃ、オリックスでしょ?
オリックスで一緒にプレーした選手たちを、コーチとして雇った。
「野球しかやってきていないんだったら、野球やったらいいじゃん、って話です。一般的な企業ではないわけで、でも、これって、俺たちのできることじゃん、俺たちしかできないことじゃない、みたいな話で進めていったら、みんなが共感してくれて」
1993年ドラフト4位指名の内野手・福留宏紀、1995年ドラフト2位指名の投手・川崎泰央、1998年ドラフト3位指名の内野手・相川良太ら、オリックス出身のOBたちが高見澤の経営する野球塾で講師役を務めている。
私も、番記者時代に取材した経験のある選手たちばかりだった。
「めちゃくちゃ、オリックスでしょ? なんでオリックスなの、っていうお客さんも結構いますよ」
千葉から、東京から、遠くは茨城からも、野球塾へやって来る。
年商「うん億円」、借金も返済
その生徒数は、今や630人ほど。年商も「うん億円、ですかね」
教え子たちは、甲子園にも続々出場している。
野球塾の会社を購入するためにかかった資金も、すべて返済が終わったという。
コーチとしての手腕はもちろんのこと、ここまでくると、もはや「実業家」だ。
生徒たちも「環境」を求めて、野球塾にやって来るという。
甲子園から名門大学、そして日本のプロ、さらにはメジャーを目指す。
環境なんて自分で作りゃいいじゃんか
その目標から逆算し、小学校や中学校からクラブチームに入り、高いレベルの野球に取り組みながら、野球塾にも来て、個人的な技術のレベルを上げていく。
「時代ですね。中学生とか高校生たちが『環境』って言うんですよね。でも、環境なんて自分で作りゃいいじゃんか、という話もするんです」
プロでやりたい。だから、契約金0円で飛び込むという人生の選択をした高見澤だからこそ、説得力もある。
わずか3年のプロ生活。しかし、苦労を逆手に取ったともいえる野球人生は続いている。
ドラフト同期、契約金0円の高卒選手も訪ねてきた
「ここにも来ましたよ。『どうやってやってるんですか』みたいなね」
そう笑った高見澤のもとへ、高松から高橋が訪ねてきた。
高橋は分配ドラフトで入団した楽天を2005年に退団、故郷の高松へ戻ってきた。
1年ほど、宅配の夜勤で「荷物を下ろす仕事をしていましたね」
もう、野球は懲り懲りだと思っていた。実家は漁師。高橋も「カンパチ」の養殖を本格的に手掛けるようになった頃だった。
倉庫を改造し、野球塾の「教室」に
「高橋さん、野球を教えてください」
元プロ野球選手だった高橋のもとへ、近所の子供たちがお願いにやって来た。
漁師の仕事で使っていた倉庫を改造した「野球塾」は、選手2人からのスタートだった。
口コミで、その評判が伝わっていく。
1年もすると、30人の選手を教えることになっていた。
場所が手狭になってきた。そこで高橋は、父親から資金を借り、さぬき市内で倉庫を借りて、そこを改造することにした。
5年間教え続けた後、2016年8月から高松市六条町に野球塾を移した。
生徒数は今や120人。地元の名門・高松商に進み、甲子園に出場した教え子もいる。2021年ドラフトで、巨人から育成8位指名を受けた四国学院大の左投手・富田龍は「高橋野球塾」からプロへ送り出した初めての教え子だという。
漁師と野球塾コーチの二刀流
カンパチの養殖は、5月中旬から12月まで。早朝から午前中で仕事を終えるので「そんなに負担はないですね」。本業を終えると、午後3時頃に高松の練習場へ来て準備、5時前になると、ユニホーム姿の少年たちが続々と集まってくる。
クラス別の練習は、午後9時半に終了する。
それが、一日のルーティンだという。
練習場は、工場の一角を借りた倉庫を改造したもので、土と人工芝を敷き、LED照明に、空調のファンも設置。縦35メートル、横15メートルの屋内グラウンドになっている。
投資は自分へのプレッシャー
2000万円の投資額は、満額の契約金とくしくも同じ額だ。
「自分が逃げたくないというか、逃げ道を作りたくない、ここで勝負したいという思いがあったんで、一気にこう、投資したという感じなんです。自分にプレッシャーをかけて」
野球塾を開校していた“先輩”の高見澤にも、だから教えを請うたのだ。
「契約金0円選手」とは、何だったのか?
「契約金0円」は、わずか3年間しか採用していない。
たった一人の高卒選手だった高橋は一軍に一度も上がれず、2年目に松坂からホームランを放って脚光を浴びた高見澤も、怪我がたたって、わずか3年でのプレーに終わった。
2人とも、志半ばでピリオドを打たされたようなプロ野球生活だった。
球団の狙いは、うまくハマらなかった。
高見澤も高橋も、その制度に翻弄(ほんろう)され、割を食った形になるかもしれない。それでも、高橋は「そのプロ野球の5年間がなければ、この野球塾も成り立っていない」と断言する。
「キツかった時の経験、プロ野球の経験があるからこそ、それ以上、しんどいこともキツイこともないだろうと思ってやれているのが、今に繋がっています。やっぱり僕はうまくなかったから、一軍に出られなかったというのもあるんですけど、その分、いっぱいいろいろな練習をしていただいたり、いろいろな方たちが教えて下さった部分、それが自分の引き出しとなって、今の選手たちに伝えられる部分であったりもするので、それはそれで、すごく良かったなっていうのもあります。それがなければ、今はないんでね」
2人の「契約金0円選手」は、今もなお、野球の世界にいる。
「元プロ野球選手」という肩書を、今、自らの人生に生かしているのだ。
文=喜瀬雅則
photograph by Naoya Sanuki