曙太郎はニコッと笑って、ビールが注がれた大きなジョッキの中に小さなグラスをポトンと落とすと、一気に飲み干した。小さなグラスの中には眞露が入っていた。

 それを見ていたスポーツ紙の記者が「ボクも」と近寄って横綱に挑んできた。「止めとけばいいのに」と思った。体の大きさは3倍以上も違う。勝てるはずもない。一緒に飲んでみたかっただけなのだろうけど。

韓国で見た横綱のやさしさと気遣い

 韓国・ソウルのある店で焼肉を食べた後で、曙と4、5人で飲んでいた。クリスティーン・麗子・カリーナ夫人も一緒だったが、少し離れたところから微笑んでいた。

 曙は「じゃあ、2つ入れるよ」と言って、今度は自分のジョッキに小さなグラスを2つ落とした。最初から結果がわかっている勝負にちょっとハンディキャップをつけてみせるという、横綱のいたずらっ気のあるやさしさであり気遣いだった。次は3つ落としてみせた。

 眞露は想像以上に効く。その数年前、韓国の友人と筆者は眞露での乾杯を繰り返し、ホテルまでたどり着くのがやっとだった苦い経験がある。

 勝負の結果が出るのにそんなに時間はかからなかった。その記者は横綱の前で深い眠りに落ちてしまった。

「ここはお開きにして、もう一軒行きますか?」という流れになったが、愛妻家は夫人の方に目をやると「待っているから」と席を立った。

ジャンルが変わっても「64」を背負ってリングに立った

 曙の相撲は「電車道」で豪快だった。同期の若乃花、貴乃花との対戦は面白かったし、テレビでは見ていたが、相撲時代の曙を取材したことがない。K-1やプロレスを始めてからの曙しか筆者は知らない。

 曙はジャンルが変わっても「64」という数字を背負ってリング立っていた。大相撲という特別なしきたりのある世界に入って、外国人として初の横綱になった。1998年長野冬季五輪の開会式では土俵入りのパフォーマンスを披露して、日米や世界との懸け橋といった大きな役割を務めた。考え方や礼儀作法は日本人より日本人らしいという評判をよく耳にしていた。

瞬間最高視聴率は43%…ボブ・サップとの世紀の一戦

 そんな曙が突然、相撲界を去って、2003年大晦日のK-1で鮮烈なボブ・サップ戦が実現する。試合よりその発表自体が衝撃だった。大会場で同じ日に3つのイベントが繰り広げられた空前絶後の格闘技ブームであり、格闘技バブルでもあった。

 満員のナゴヤドーム。その夜、筆者はリングサイドにいたが、まさか曙がKOされるとは思わなかった。巨象が倒れてピクリとも動かなかった。忘れられない出来事だった。紅白歌合戦の裏で、瞬間最高視聴率は43%をマークした。

 翌年の大晦日はグレイシー柔術のホイス・グレイシーが相手だった。打撃も練習してホイスと対したが、曙は弱点のヒザにアリキック(ローキック)を浴びてしまう。それでも上になってホイスに乗ったが、巧みな関節技にまたしても苦杯をなめてしまった。

全日本プロレス、ハッスルでの活躍

 曙がプロレスラーになったのは2005年7月、WWEの日本ツアーで舞台はさいたまスーパーアリーナだった。さらに同年8月4日には武藤敬司が絡んでいたWRESTLE-1でグレート・ムタとシングルマッチで対戦した。

 WWEがもっと曙に興味を示していたら「リアル・ヨコヅナ」がアメリカで暴れまわっていたかもしれない。そんな姿を見てみたかった。

 その後、曙は武藤が社長だった全日本プロレスでファイトした。8月21日、後楽園ホールで諏訪間幸平(現・諏訪魔)と組んで勝利した曙は、メインイベントにも助太刀で乱入し、プロレスの師匠である武藤と二人で「プロレス・ラブ」のポーズを決めてみせた。

 同年10月にはタッグマッチだが、ノアの三沢光晴と対戦した。三沢は容赦ないエルボーを曙に打ち込んでいた。三沢としても打ちがいがあっただろう。

 ビッグネームが曙の相手だった。戴冠は叶わなかったが、2006年3月には新日本プロレスの両国国技館大会でブロック・レスナーが保持していたIWGPヘビー級王座に挑戦した。

 2007年のハッスルのリングではインリン様(インリン・オブ・ジョイトイ)とムタの子供という設定で「モンスター・ボノ」や「ボノちゃん」になって、いいキャラクターを演じた。

なぜ、曙はリングに上がり続けたのか

 曙はプロレスが好きだった。ハワイでプロレスを見て育った少年は、プロレスというものを理解していた。どうしたら観客を喜ばすことができるかも考えていた。203センチの巨体は説得力があった。少し時間はかかってしまったが、曙はリングでいい動きを見せるようになっていった。

 2012年8月に行われた大仁田厚との有刺鉄線電流爆破マッチはすごかった。「横浜大花火」とうたった大会は、その名の通り火薬量を増やした。曙はそのリングで勝利したが、爆破の熱風を吸い込んでしまい、肺などの呼吸器を痛めてしまった。

 そんな曙が全日本プロレスの三冠ヘビー級王座に就いたのは2013年10月だった。かつてタッグパートナーを務めてくれた諏訪魔の三冠王座に挑戦した。最後はパイルドライバー(ヨコヅナ・インパクト)で諏訪魔からフォールを奪って、第47代の三冠ヘビー級王者になった。プロレスデビューから8年が過ぎていた。曙はリングサイドにいた夫人と喜びのキスを交わした。横綱に最もふさわしい、両国国技館での戴冠だった。

 2015年5月、曙は三冠王座返り咲きを果たしたが、不整脈に悩まされていた。それでもリングに上がり続けた。プロレスが好きだったから。

 2017年4月、曙は福岡での試合後、病院に搬送された。それから長い闘病生活を続けていたが、この4月に息を引き取った。54歳だった。

 曙の訃報が伝えられた日、JR両国駅構内に設置されている背比べの203センチのゲージを見上げたり、色紙の手形に手を合わせたりする人の姿がいつもより多く見られた。

 都営地下鉄大江戸線の両国駅からJR錦糸町駅方向に向かう北斎通り沿いに、野見宿禰(のみのすくね)神社がある。相撲の神様とされる野見宿禰を祀っていて、曙も1993年、第64代横綱になったとき土俵入りを奉納したところだ。そこには歴代横綱の名前を刻んだ石碑が2つ並んでいる。

 一基目には初代「明石志賀之助」から46代「朝潮太郎」まで、その右脇の二基目は47代「柏戸剛」から始まって73代「照ノ富士春雄」まで彫られている。上段に「米国 曙太郎」とあるが、まだ存命を示す赤い文字のままだ。

文=原悦生

photograph by Essei Hara