1995年5月2日、野茂英雄がメジャー初登板を果たしてから29年が経つ。ポスティングシステムもない当時、プロ6年目に突入する野茂が1995年も日本でプレーすることは当然と目されていた。一体、その前年には何が起きていたのか。近鉄時代の番記者がメジャー挑戦に至るまでの「最後の一年」を振り返る――。【連載「近鉄を過ぎ去ったトルネード」第1回】

野茂はどないしとるねん?

 私が初めてプロ野球球団の「番記者」になったのは、サンケイスポーツ新聞での入社5年目、1994年の近鉄バファローズだった。

 当時、常夏のサイパンで行われていた2月のキャンプインに備え、暑さ慣れと称し、1月下旬から先乗りして自主トレを行っていた主力選手たちに、南の島で挨拶をすることから猛牛番の仕事はスタートした。

 野茂英雄とのファーストコンタクトは、正直言って、ほとんど記憶がない。

 当時プロ5年目。ルーキーイヤーから18、17、18、17と勝ち星を積み上げ、4年連続最多勝。体を大きく捻って剛球を投げ下ろし、宝刀フォークでバットに空を切らせる。その豪快な投球で日本球界を席巻していた「トルネード」は、最多奪三振のタイトルも同じく4年連続で獲得。近鉄はもちろん、日本を代表する右腕の一人だった。

 番記者に対して口数が少なく、見出しになるような、気の利いたネタを提供してくれるタイプでもない、いわゆる“記者泣かせ”と呼ばれる存在だった。それでも、会社からは必ずと言っていいほど「野茂」の話題が要求された。原稿の打ち合わせのため、会社に電話を入れ、他の選手の名前を挙げても、受話器の向こうからは「野茂はどないしとるねん?」。

サイパンでの“初事件”

 これまでの取材の積み重ねがなく、新米番記者の引き出しにはネタのストックなど全く入っていない状態だった。野茂にまつわる話をひたすら、必死に探し回る日々だった。

 私がサイパンで遭遇した“初事件”は、キャンプ初日に起こった。

 当時の監督は、近鉄一筋20年、通算317勝のレジェンド・鈴木啓示だった。

 担当の引き継ぎで、先輩記者に連れられて挨拶に出向くと「おー、プロ野球担当は初めてなんか? 何でもワシに聞いてくれ」。1m81cmの長身、分厚い胸板、そしてよく通る大きな声のすべてに、圧倒される思いだった。それでも新米だろうが、旧知のベテラン記者だろうが、分け隔てすることなく、丁寧に質問に答えてくれた。

「野球ってのはな、ちゃんとユニホームを着て、スパイクを履いてやるもんなんや」

 2月とはいえ、盛夏のようなサイパンだ。しかし鈴木は、ウォーミングアップからユニホームの上下をきっちり着用し、スパイクも履くという“フル装備”を命じたのだ。

質より量が問われた時代

 2020年代の今なら、暑さ対策としてそれこそTシャツとハーフパンツでのアップでも、容認されそうなものだ。そして、いくら自主トレで体を作ってきたとはいえ、いきなりのスパイクの使用は足への負荷が大きく、故障の原因にもつながりかねない。それこそ今の高校球児だって練習開始時点でスパイクを履いたりしないだろう。

 しかし、1990年代は今のような科学的なトレーニングの概念からは、まだまだ程遠い時代でもあった。キャンプでは徹底的に走り込んで下半身を作る。投手はブルペンで何百球と投げ込み、打者も何百回とバットを振り、ノックを受ける。質よりも量、それこそへとへとになるまで、滝のような汗を流し、体をいじめ抜くのが当然だと見なされていた。

 シャリ、シャリ。

 アップからスパイクで土を蹴る音が聞こえる。その大集団の中で野茂英雄は、何食わぬ顔をして、アップシューズで走っていた。

すれ違う名投手2人の考え

 それは、裏を返せば、監督の指令をエースが無視したという図式にもなる。

 プロ通算317勝の鉄腕・鈴木には、諦めない不屈の姿勢を表す「草魂」というフレーズが定着していた。人の足で踏まれても、再びコンクリートの割れ目から這い出てくる雑草のたくましさを、その造語に込めた鈴木のポリシーは、一時代前、いや二時代前の“昭和の野球イズム”そのものだった。

 発する言葉にも、根性論、精神論の比重が大きかったのも確かだ。投手は、投げてなんぼや。もっと投げろ。もっと練習しないと、この先、すぐにアカンようになる。鈴木の持論とその方針に対して、自らの主張を譲らず、その行動で“反発”したのが野茂だった。

投手の肩は消耗品vs.投げなアカン

 投手の肩は消耗品。その頃から、すでにメジャーの常識になっていたコンセプトが、野茂の“行動の前提”だった。その年、2月7日まで行われたサイパンでの1次キャンプ中、前年からの右肩コンディション不良を理由に、野茂はブルペンには一度も入らなかった。2次キャンプの宮崎・日向でも、ブルペンでの初投げはキャンプ終盤に入った2月20日のことだった。

「試合で100球投げるのには、ブルペンで200球、300球と投げなアカン。それくらい投げて、体に覚え込まさんとアカン。それくらい投げて、初めて試合と同じくらいや」

 キャンプ中、全投手の投げ込み数を表にして、選手たちにも分かるように貼り出されていたのは、鈴木の方針だった。現役時代、キャンプのブルペンで300球近く投げることもあったという経験談も、私たち番記者に語ってくれた。それは野茂のやり方への批判にも聞こえた。監督とエースの度重なる“衝突”は、取材する側にとっては、申し訳ないが、まさしく格好のネタだった。

またそんな話ですか? 

「監督がこう言ったけど、どう思う?」

「またそんな話ですか?」

 野茂には、露骨にイヤな顔をされた。しかし、言葉が少なくとも、ノーコメントであろうと、嫌がっているという反応で原稿を書く。野茂にしてみれば、たまったものじゃないだろう。プロ野球記者1年目の私は、まるでマッチポンプのごとく、指揮官とエースの“ややこしいもめ事”を捻り出し、そのことを綴って、日々の仕事をしのいでいたのだ。

 自省を込めていえば、野球の本質からは完全にそれていた。

 とはいえ、永遠に交わらないであろう2人の関係性そのままに、1994年のシーズンが推移していくことになるのも、また必然の流れでもあった。

<つづく>

文=喜瀬雅則

photograph by BUNGEISHUNJU