現地時間5月17日に行われた岡崎慎司の引退試合。海外挑戦の出発点・シュツットガルト時代から取材してきた記者が見た現役最後の雄姿、そしてキャリア終盤に語られた意外な一面とは――。

 元日本代表FWの岡崎慎司が、プロサッカー選手として最後の試合に臨んだ。

 シントトロイデンのホーム最終戦となるルーヴェン戦で岡崎はCF(センターフォワード)としてスタメン出場。アップのシュート練習では精度の高いシュートを次々にゴールへと決めていく。試合前には通算出場数となる《706》が記されたユニフォームと花束をもらい、ラストマッチのキックオフをした。

「オカザキ」コール

 果敢な守備、裏への抜け出し、ゴール前への飛び込み。膝に痛みを抱えながら、必死に体を動かし続ける。山本理仁のフリーキックに頭で合わせる場面もあったし、両チーム選手がもめる輪の中に入って仲裁するシーンもあった。一つ一つのプレーやしぐさにこれまで積み重ねてきたものが宿っている。

 後半6分、笛が鳴った。交替ボードに岡崎の番号が掲げられる。両チームの選手がゲートを作り、偉大な選手の最後に花道を作った。審判と両チームの選手それぞれと握手をして、トルステン・フィンク監督とはハグをして、一歩一歩をかみしめながらピッチを後にした。シントトロイデンファンからは大きな「オカザキ」コール。笑顔だった。

岡崎「想像してなかった。相手チームにまでやってもらえて。本当にいい終わり方ができたと思います」

 試合後にはサプライズで大型モニターにかつてのチームメイトからのお別れメッセージが映し出された。長友佑都、香川真司、レスター時代の同僚ジェイミー・バーディたちからも。いろんな思いが去来したことだろう。

 試合後シャワーを終えてスーツ姿に着替えた岡崎はファンイベントに参加。午後11時を過ぎていたが、100人以上のファンが集まった。日本人だけではなく、地元ファンの姿もある。質問コーナーでは一つ一つに丁寧に答え、参加者それぞれと写真に収まった。にこやかに会話をし、肩を組んで、握手をして。最後の一人が終わった時にはもう12時半を回っていた。

前向きな岡崎が口にしたネガティブなこと

 岡崎からはいつもポジティブな言葉を聞いていたように思う。ギラギラしていて、世間から見てすごいことをしているときでも「いやいや、まだまだ」とさらに上を見て、苦しい状況にいるのではという時でも「戦っているという実感があって燃えてきますね」と言い切る。だからファンもそんな岡崎を愛したし、誰もがその勇猛果敢な姿勢から勇気と情熱をもらったことだろう。

 そんな岡崎が、意外にもネガティブなことを口にしたことがあった。

 あれは2012-2013シーズン、シュツットガルト時代のこと。酒井高徳が契約延長するというリリースがクラブから送られてきたので、記者会見をやると思って駆けつけたところ、こちらの勘違いで会見をやる予定はないとのこと。勇み足だったかとがっかりしていたら、「ちょうど酒井と岡崎の二人が練習後で時間があるから、インタビューしてもいいですよ」と広報が機会を作ってくれたのだ。ありがたい。

 酒井とは契約延長についての話をし、岡崎は右手のオペをした直後だったので怪我の状態などから話を聞いていた。しばらく話をしていたら、ドイツカップの話になった。当時、シュツットガルトが決勝に進むと対戦する可能性のあったドルトムントとバイエルン、両雄の試合が控えていた。

「対戦するならどっちがいい?」

 何気なく聞いてみた。すると岡崎がこんな風に話したのだ。

あれ、恐怖症なんですよ

「バイエルンはもうあのゴールを決められた時の音楽が怖いですからね(笑)。(酒井に向かって)あの音楽コワイよな!?(酒井も「怖い!」と同意) あれ、恐怖症なんですよ。この前の試合で、ミスをして失点に絡んだじゃないですか。あの試合なんかもう一切観ないもんなあ」

 そういう怖さがあるのか。雰囲気に飲まれるという表現があるが、飲まれるどころか心に深く刻まれた飲み込まれるような怖さ。どれほどの圧力が押し寄せてきたのだろう。

「いや初めてですよ、あんなの。3分くらいで2点取られたのも初めてだった。この先何点取られるんやろって。途中でリタイヤしたいと思ったのも、交代してホッとしたのなんて初めてですよね」

シュツットガルトのころは…

 あの時の話を岡崎は覚えているだろうか? 引退を間近に控えた5月に話を聞く機会を作ってもらえた。あそこまで追い込まれるような試合というのはその後のキャリアで出会うことがあったのだろうか?

「あの試合のことは今でも覚えてます。いやあ、あんなことは……。あっても何回かしかないっすね。でもシュツットガルトのころはいろんなイライラが出ていたというか、そういうネガティブ感はめちゃくちゃあったんです」

 清水エスパルスから移籍して初年度はレギュラーを獲得。順風満帆な海外デビューを飾っていたかと思ったが、相当に苦しい時期を過ごしていたと回顧する。

もう監督信じない

「日本からドイツに来て初めての年だったというのもあるけど、こんなにも違うのか、こんなにも理不尽なことってあるんだって思ってしまうようなことが多かったんです。僕が60分ぐらいまで本当にノーミスで完璧だったのに、たった1回ミスしたら監督が交代の準備しているのが見えるみたいな。正直『もう監督信じない』って思ってしまったこともあるかな」

 当時の取材メモを見返してみると、思うようにいかないもどかしさをどうにか押しとどめようとしている談話が少なくはない。こちらの想像以上に苦しい思いにさいなまれていたのかもしれない。

 だが、気持ち的に追い込まれていても、岡崎は屈しなかった。ネガティブなことに押しつぶされそうになっても、ファイティングポーズを解くことはなかった。

不屈の精神力、その理由

 なぜまた立ち上がることができたのか。どんなことに影響を受けて自身を奮い立たせる術を身に着けてきたのだろう?

「本もだし、あとアニメや漫画とかも。スポーツ漫画が好きだし、ジャンプの熱血系も。弱いとこから這い上がってみたいな。あと高校時代に《プロジェクトX》っていう番組を黒田先生(滝川第二高の黒田和生監督)から絶対に毎週見なきゃいけないっていうのがあったんですよ。そこで学んで共感したのか、共感したから学んだのかはわかんないですけど、成功するためのストーリーをカッコいいって僕は思ってました。身近でも泥臭く戦う選手の姿を見て、やっぱりこういう生き方がいいな、人間臭いところが好きだなっていう自分なりの感覚があったんです」

 あこがれの姿に自身を投影させて、ポジティブな意味で《勘違い》ができる人は強い。ヒーロー願望は子供のころ誰もが持っていたもの。そしてその願望に浸れている時、自分はだれよりも強くなれる気がする。

両親、そして妻への感謝

「あとやっぱり親ですね。両親がポジティブな人たちだったというのも大きいです。子どものころから出会ってきた人の多くが否定的じゃなかったというのもありがたかったです」

 そして岡崎にはその闘志を支え続けてくれる家族がすぐそばにいた。シュツットガルトからマインツ、イングランドのレスター、スペインのウェスカ、カルタヘナ、そしてベルギーのシントトロイデン。欧州様々な地を転々としながら、家族とともに生活するのは簡単なことではない。

「心の支えというよりは、『僕についてきて一緒に戦ってくれているんだ』っていうのをある時ふと感じたんです。シュツットガルトでめちゃくちゃ悩んでるときに、奥さんはそういう状態でもネガティブな言葉を口にしなかった。『もう日本に帰りたいな』とか、『私たちは日本に帰るよ』ってなるような状況だってあったはずなんです。でも、そこでネガティブな風にならなかった。本当に家族のおかげですよね。おかげで僕はサッカーにずっと集中して取り組むことができました」

子どもの成長に「普通にそこまで話せるんだ」

 子どもたちが小さいころからいろんなところに引っ越しをし続けている。ただ周りのサッカー選手には、家族がいて子どもがいて海外を転々としてという先駆者がいない。どうすればいいのかを常に自分達で考えなければならなかった。

「みんなで一生懸命『どうやったら、うまく暮らしていけるんだろう』って。何もわからずにずっと進んでいたのかもしれない。でもある時子どもも大きくなって、ふとこっちの生活に慣れてるのが見えたとき、例えば英語で会話してるのをそばで見て、『ああ、もう普通にそこまで話せんだ。すごいな』と、感じたんです。そして『これだけで十分だな』みたいなふうに思ったんです」

 様々な人との縁を大切に、岡崎は欧州を駆け続けた。身体がボロボロになるまで戦い続けた。戦いきることができた充実感を胸に、視線はすでに次の目標へと向けられている。今度は指導者として世界で戦うために。

「挑戦」が一番のキーワード

「何をするかってなったときにやっぱり挑戦するっていうところが自分にとっての一番のキーワード。そこはきっと一生変わらないかもしれない」

 新たな扉を開き、生涯チャレンジャーの岡崎が次の一歩を踏みだす。

文=中野吉之伴

photograph by STVV