4月29日の『つボイノリオの聞けば聞くほど』(CBCラジオ)では、休日特集「輝く不適切ソング大賞」を放送しました。 誰もが知る名曲でも、現在のコンプライアンス基準では難しい歌詞が多数登場しました。

     

NHKではダメ

最初は山口百恵さんのヒット曲「プレイバックPart2」。栄えある「不適切ソング」とされたのは、歌詞の中に出てくる「真っ赤なポルシェ」との文言。

小高「これ、NHKさんでは「真っ赤なクルマ』に変えて歌ってください、というエピソードは有名ですよね」

つボイ「NHKは商品名は嫌ってましたからね」

つボイが相撲中継を見ていた時のエピソードを披露。
NHKのアナウンサーが「さあ人気力士の登場です。客席も沸いております。力士の名前をマジックイン…フェルトペンで書いた」と商品名を回避したそうです。

「マジックインキ」は商品名、一般的には「フェルトペン」とか「サインペン」と言います。

アンサーソング

話題は「プレイバックPart2」に戻ります。

実はこの曲、沢田研二「勝手にしやがれ」と深い関係があるそうです。すでに何人かのリスナーから「勝手にしやがれ」のアンサーソングだというおたよりが寄せられていました。

「勝手にしやがれ」は昭和52年(1977年)に発売されてヒット。「プレイバックPart2」がヒットしたのは翌年です。

「勝手にしやがれ」の作詞を手掛けたのは阿久悠さん。一方「プレイバックPart2」は阿木燿子さん。
阿木さんは意図して「勝手にしやがれ」のアンサーソングとして「プレイバックPart2」を書いたと言われているそうです。

男の気持ちと女の気持ち

「勝手にしやがれ」の世界は男性が主人公で、一緒に暮らしていた彼女が家を出て行ってしまったという内容。

小高「歌詞をひと通り読むと、めんどくさい男だな〜と思います(笑)」

つボイ「男の気持ちってこういうもんさ」

小高「最後は、夜に派手なレコードをかける」

つボイ「これは近所に迷惑ですよね」

一方、翌年リリースされた「プレイバックpart2」は女性側の話。彼氏とケンカして家を飛び出して、ひとりで真っ赤なポルシェで街を疾走します。

つボイ「ハイクラスなふたりですねえ。うちみたいに軽自動車じゃないですよ」

2番の歌詞の中に、運転中にラジオから流れてくるステキな歌というのがあります。その素敵な歌とは「勝手にしやがれ」。
これは昨夜のあなたが言ったことですよ、という内容の歌詞に繋がっていきます。

小高「男に吐き捨てるようなセリフを言う百恵ちゃん。カッコいいと思いきや『プレイバックPart2』の結末は、あなたの元へ帰るという歌詞です。ケンカしてるのに帰るんかい」

ツッコまずにはいられない小高でした。

不適切大賞の何賞受賞?

「昨夜、同棲している彼氏とケンカして家を出てしまったけど、やっぱり彼の元に帰るんですかね。歌の2番は沢田研二さんの『勝手にしやがれ』なんですね。歌詞を改めて読んで知りました」(Aさん)

「夜に派手なレコードをかけて、朝までふざけるというヤバい男の元に戻ろうとする女性を見ると、どっちもどっちな感じですよね」(Bさん)

小高「ハラハラしながら最終的に元の鞘に収まったんやな。今日は『不適切ソング大賞』、2曲まとめて何賞を送りますか?」

つボイ「『ふたりとも勝手にしやがれ賞』でいいんじゃないでしょうか?」

大人気作家、阿久悠

「勝手にしやがれ」を作詞した阿久悠さん、「プレイバックpart2」を作詞した阿木燿子さん、そして山口百恵さん。この3人には因縁があるそうです。

阿久さんは1965年に作詞家デビューしてヒット曲を連発。
阿木さんが「プレイバックPart2」を書く1978年の時点ですでに、「また逢う日まで」(1971年)、「北の宿から」(1976年)、「勝手にしやがれ」(1977年)でレコード大賞の大賞を受賞している大人気作詞家でした。

ちなみにこの後も「UFO」(1978年)、「雨の慕情」(1980年)でレコード大賞の大賞を受賞することになります。
5曲で大賞受賞した作詞家は、阿久さんが最多です。

先輩をロックオン

阿木さんは作詞家デビューが1969年。
1971年に大学で同学年だった宇崎竜童さんと結婚し、1975年に書いたダウンタウンブギウギバンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒット。

その後、右肩上がりで人気作詞家になっていき、レコード大賞受賞曲は「魅せられて」(1979年)と「DESIRE-情熱-」(1986年)。
「プレイバックPart2」を書いた時点では受賞していません。

時代はやや違えどどちらも人気作詞家。阿久さんと阿木さんは8歳差で、同じ明治大学文学部の先輩後輩に当たります。
偉大な先輩作詞家を追いかけるのが阿木さんの当時の立場でした。

ちょうど「勝手にしやがれ」「プレイバックPart2」がヒットした77年と78年は、ピンクレディーへの提供で大御所となった阿久さんと、百恵さんへの提供曲がヒットを連発した上り調子の阿木さんがライバル関係にあった頃です。

百恵ちゃんの怨念

一方、山口百恵さんのデビューのきっかけはオーディション番組『スター誕生』(日本テレビ系)でした。

実は百恵さんがこの番組に出演した時の審査員に阿久さんがいました。
百恵さんの歌を聞いた阿久さんのコメントは「君は、誰か青春スターの妹役みたいなものならいいけど、歌は諦めた方がいいかもしれないね」だったそうです。

小高「これを、山口百恵さんは、今に見ておれとずっと心に秘めていた。その後の百恵ちゃん人気は皆さんご存じの通り」

阿久さんに対して思うところのあった阿木さんと百恵さんがタッグを組んだのが「プレイバックPart2」でした。

小高「背景を知ると面白いですよね。つボイさんは自分の曲にアンサーソングは?」

つボイ「金太に対してお万(家康の側室)があるんですよ。お万があったらインカ帝国も歌わなどうする?いうことですよ。吉田松陰も出てきます」

小高「困ったことだ」

「金太の大冒険」(1975年)、「極め付け!お万の方」(1976年)、「吉田松陰物語」(1976年)、「インカ帝国の成立」(2006年)。
昭和の名曲に飽きたら、これらの珍曲もどうぞ。 
(尾関)