平成を彩った名プロレスラーで、“デンジャラスK”という愛称で人気を博した川田利明。かつて新日本プロレスと人気を分け合った全日本プロレスの第12代三冠ヘビー級王者として君臨するなど、三沢光晴、小橋建太、田上明との闘いは「四天王プロレス」と呼ばれ、全国のプロレスファンを大いに興奮させた。そんな川田の今の肩書きは「ラーメン屋店主」。“脱サラ”ならぬ“脱プロレスラー(正式に引退はしていないが)”をした上で、2010年6月、東京都世田谷区に「麺ジャラスK」をオープンさせ、以来厨房で腕をふるっている。smart Webでは、その汗と涙のラーメン店経営の日々を赤裸々につづった『プロレスラー、ラーメン屋経営で地獄を見る(宝島SUGOI文庫)』から一部を抜粋して3回に分けてご紹介。1回目は、料理人としての礎を築いた(?)全日本プロレスでの若手時代と、“デンジャラスK”川田利明が「麺ジャラスK」に“転職”した理由について。(全3回の1回目)

川田利明『プロレスラー、ラーメン屋経営で地獄を見る(宝島SUGOI文庫)』(宝島社)¥990

川田利明『プロレスラー、ラーメン屋経営で地獄を見る(宝島SUGOI文庫)』(宝島社)¥990

世界のジャイアント馬場さんがたどり着いた究極の料理とは!?

 しばらくして、俺はジャイアント馬場さんの付け人になった。その頃には旅館だけでなく、ホテルにも泊まるようになったけれども、馬場さんは試合が終わってホテルにチェックインすると、わざわざ外へ出て、食事をするようなことはしなかった。ホテルの中にあるレストランで食事をするのが、馬場さんのライフスタイルだったからだ。

 俺も同席していたので、けっこう贅沢な食事をご馳走になっていたはずなんだけど、馬場さんの奥さんも一緒だったし、常に気が張っている状況だったので、もう味なんてまったくわからなかった。もったいない話だけど、その頃の記憶は俺の舌にまったく残っていないし、できるだけ安いものを選んで食べていた。

 馬場さんはかなりのグルメだったけど、「面白いな」と思ったのは世界中の美味いものを食べつくした人は、結局、庶民的な食べ物に回帰するんだな、ということ。ある時、突然「マクドナルドのフィレオフィッシュを食べたんだけど、こんなに旨いものがあったのか?」と馬場さんが言い出した。たしかに旨いけど、「世界一旨い!」と言われると、ちょっとびっくりする。

 でも、馬場さんは本気でそう思っていたようで、それからはホテルから試合会場へと向かう途中、選手を乗せた移動バスは必ずマクドナルドに寄るようになった。車中で馬場さんが食べるフィレオフィッシュを買い込むためだ。旨いもののゴールなんて、本当にどこにあるかわからない。

美食家ジャイアント馬場が「こんなに旨いものがあったのか?」と絶賛した意外な料理

 ある程度、キャリアを積むと、付け人の仕事から外れて、30歳前後でやっと今度は自分に若い付け人が付くようになる。そうなったらようやく雑用からも解放され、試合が終わったあとの時間も比較的自由になるんだけど、だいたい試合が終わるのが夜の9時すぎ。なんだかんだでホテルに戻るのは10時とか11時といった遅い時間になってしまう。地方だと、もう居酒屋かファミレスしか開いていない時間だから、結局、地元の名物なんかは食べられない。

 そうそう。地元のプロモーターやスポンサーの方から接待の席に呼ばれることも多かった。その場合、連れていかれるのは、ほぼ100%、焼肉だった。レスラーなんだから、遠慮なく肉を食ってくれ、とね。最初の頃は嬉しかったな。

 ただ、毎日のように焼肉が続くと、「あぁ、そろそろ寿司が食べたいな」と思うようになる。たぶん寿司が3日続いても、美味しく食べられるけど、焼肉が3日続いたら、もうギブアップ。それでも先方がセッティングしてくれた場所に行くだけだから、自分たちで店を選ぶことはできない。そんな中で発達した特殊能力が「焼肉屋に行って、いかにして肉を頼まないで食事をするか?」。つまり、上手いことサイドメニューを組み合わせて、自分なりのメニューを構築するのだ。店ごとに特色があるので、これを考えるのはなかなか楽しかった。

 今、自分の店でもたくさんのサイドメニューを提供しているけど、ひょっとしたら、この時の体験が少しは役に立っているのかもしれない。

プロレス界で個性を出すために“不器用なキャラ”を演じていた

 この本の第2章以降は、読んでいる方が「川田はいったい何をやっているんだ?」と呆れるくらい、俺の失敗体験がこれでもかと出てくる。

 プロレスファンの人からすれば「なるほどな。やっぱり川田って不器用だからな」と妙に納得してしまいかねないので、最初に書いておく。

 俺、本当はすごく器用だよ、と。

 若手の頃から俺の試合を見てくれていた人は知っているかもしれないけど、昔の俺はなんでも器用にこなすプロレスラーだった。

 アマレスをやっていたからグラウンドもできるし、プロレスラーになってから空手を習いに行かされたのである程度の蹴りもできる。身のこなしも軽かったので、いわゆる空中殺法も楽々とこなせた。実際、2代目タイガーマスクだった三沢さんとのコンビで、タイガーマスク2号にすることを馬場さんは考えていたほどだ。

 ひとことでいえば、オールラウンドプレーヤーだった。

 それってものすごく自慢のように聞こえるかもしれないけれど、個性の塊のような人たちがたくさんいるプロレスの世界では、皮肉なもので、なんでも器用にこなせることは逆に「無個性」として、完全に埋もれてしまう。

 ある程度、キャリアを積んだ時点で、自分もそれに気が付くのだ。「このままじゃ俺、これ以上、上には行けないな」と。

 じゃあ、何か自分にキャラ付けをしなくちゃいけない。でも、他のレスラーとキャラ被りでもしたら、それはそれでまったく目立てない。誰もやっていないキャラってなんだろう、と考えていた時に出てきたのが「不器用」だった。

 リング上では武骨な試合をして、試合後はマイクアピールもしなければ、控室でもコメントを出さない。それを続けることで「不器用で無口」という俺だけの個性が生まれ、結果としてメインイベンターとしての地位を築けた。

 まぁ、裏を返せば、器用な人間だからこそ、そういう不器用キャラを演じることができたんだけどね。本当に無口だったら、こうやって接客業を10年も続けていけるわけもない。これが俺なりの「プロの流儀」です。

 ちゃんこ番の時も、先輩から「つみれ鍋が食べたい」と言われたら、見様見真似でイワシを一匹一匹おろして、団子にしていたので、手先も器用なんだと思う。それが店の経営となると、急に不器用になってしまうから難しいんだよな……。

三沢さんとの突然の別れでリングへの情熱を失った

 この章では、なんで俺が飲食店をやっているのかを説明するために、そのバックボーンを書いてきたけれど、本当に10年前までは店を出そうなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。

 料理も必要に迫られて高校時代や新弟子の頃にやってはきたけど、自分から進んでやっていたわけではないし、とにかく俺はプロレスラーとして、リングの上で闘うことしか頭になかった。このままリングに骨を埋めよう、と本気で考えていた。

 その考えが一変したのは、2009年6月のことだ。

 三沢さんが突然、亡くなった。

 高校時代からずっと一緒だったし、常に三沢さんの背中を追いかけていた。途中で団体は別になったけど、同じプロレス業界にいたし、「三沢さんが頑張っているからこそ、俺も頑張れた」と思っていた。

 なのに、その背中が突然、俺の目の前から消えた。

 その瞬間に俺のプロレスに対する情熱がスーッと冷めていくのがわかった。

 冷静に考えたら、俺の体もボロボロだし、いつ動けなくなるかわからない。じゃあ、「プロレス以外に俺ができることってなんだろう」となった時、ずっと作ってきた料理のことしか頭に浮かばなかった。

 もちろん、そんなに簡単なものじゃないとはわかっていたけど、じゃあ、タレントとしてやっていけるか、と考えたら、とても俺にはできないな、と。あんなに浮き沈みの激しい世界で生き残っていける自信なんて、まったくなかったからね。

 そこで昔から通っていた中華料理屋さんで勉強をさせてもらうことにした。本格的に学ばせてもらったのは、店をオープンするまでの半年間。とにかく基礎の基礎を教えてもらった。具体的にいえばスープ作りかな。プロレスで言うところの受け身の練習をひたすら続けた。

さらば愛するリングよ、そしてセカンドキャリアへ

 本当はプロレスをやりながら、お店をやるのがベターなのは明らかだ。プロレスラーとしての知名度そのものが看板になるし、リングに上がることが、そのまま店の宣伝にもなる。

 でも、中華料理屋で勉強を始めたら、それは無理だとすぐに悟った。

 何度も言うけど、飲食業はそんなに甘いもんじゃない。

 俺の名前で店を出して、俺がいない日があったら、絶対に上手くいかない。試合の度にお店を休んでいたら本末転倒だし、俺のファイトスタイルではお店との両立は体力的にも無理だな、と思ったのだ。

 実際、店を出すと決めたあとも、前から約束していたスケジュールがあったので、その試合だけは出場したけれど、あぁ、これを続けながら、厨房に立ち続けるのは体力的にも精神的にも無理だな、とすぐにわかった。

 ただ、ひとつだけ両立する方法はあった。

 それは今までのファイトスタイルを捨てて、「エコなプロレス」をすること。メインイベントにこだわらず、前座や6人タッグで客席が笑顔になるような試合をしていれば、なんとか両立できるのかな、と。

 そういう試合も興行の中では必要だし、長くプロレスを続けていくんだったら、徐々にそういうスタイルにシフトしていくものだけど、俺が急にそれをやってしまったら、お客さんはきっと「なんだよ、川田。がっかりだよ」と失望するだろう。

 プロレスラーとして、リング上では激しい試合を繰り広げ、ファンに夢を与えてきた人間として、それだけはどうしてもできなかった。

 だからこそ、正式に引退はしていないけれど、リングからは離れて、飲食店の経営に専念することを俺は決めた。

 馬場さんが亡くなったことも、実は大きな理由のひとつだ。

 全日本プロレスという会社は本当にちゃんとしていて、馬場さんが社長だった時代は厚生年金もしっかり加入していたので、年金だって受け取れる。たとえ会社の状況が良くない時でも、ギャラの遅配や減額といったことは一度もなかった。

 だから俺は全日本プロレスを信用していたし、骨を埋める価値のある会社だと思っていた。それは嘘偽りのない感情だ。

 しかし、馬場さんが亡くなり、どんどん会社は変わっていってしまった。奥さんの元子さんが経営から離れ、全日本プロレスは名前だけ残って、いつしか中身はまったく違う会社になってしまった。

 そして、ついにギャラの遅配が始まり、最終的には1年以上、ギャラを払ってもらえなかった。こうなるともう生きていくためには全日本プロレスを離れて「無所属」として活動していくしかない。

 これは決して愚痴ではなく、生きていくための現実的な話だ。

 実際、全日本プロレスに不満があったなら、天龍さんが「SWS」を、三沢さんが「プロレスリング・ノア」を設立した時についていくこともできただろう。あるいは新日本プロレスとの交流戦の流れのままに、移籍することも可能だっただろう。

 でも俺はそれをしなかった。全日本プロレスが好きだったからだ。

 だけど、馬場さんが亡くなって、元子さんも経営から離れ、徐々に変わっていく全日本プロレスに愛着が薄れていった。いつしかギャラも出なくなった。

 そして、三沢さんの死でプロレスに対する情念も薄れてしまった。

 プロレスラーになって27年目にして、初めて考えたセカンドキャリア。ただ、そこにあったのは厳しい現実だけだった。

 第2章では店の開店準備から、オープン直後の地獄のような日々についてありのままを書いていきたい。

 きっと、誰もが「ラーメン屋をやることだけはやめておこう」と思うはずだ。いや、思ってくれるはずだ。

続きは『プロレスラー、ラーメン屋経営で地獄を見る(宝島SUGOI文庫)』をチェック!

麺ジャラスK
住所:東京都世田谷区喜多見6-18-7 ビスタ成城 1F
アクセス:小田急小田原線「成城学園前」駅から徒歩約12分
定休日:火曜日
営業時間 昼12:00〜14:00(オーダーストップ13:30)
夜18:00〜21:00(オーダーストップ20:30)
都合により異なる場合もあり。
最新情報については、「X」(旧Twitter)をチェック。
Xアカウント:麺ジャラスK店長 川田利明:@orenooudou

※本記事は5月7日発売の書籍『プロレスラー、ラーメン屋経営で地獄を見る(宝島SUGOI文庫)』の一部を抜粋したものです。