昭和初期、浜甲子園に阪神パークをつくった阪神電鉄は、総合競技場として甲子園南運動場、甲子園水上競技場(通称・甲子園大プール)、テニスの甲子園庭球場や「百面コート」……と、スポーツ施設を次々と建設していった。甲子園はレジャーとスポーツの殿堂として、「楽園」と呼ばれていた。 (編集委員・内田 雅也)

 戦前、戦中と甲子園球場長を務めた石田恒信が手製本『甲子園の回想』で阪神電鉄入社(1929年)前後の空気を記している。関学大在学中の24年パリ五輪に出場した競泳代表選手である。

 甲子園球場完成から5年目の28年、アムステルダム五輪で織田幹雄(三段跳び)、鶴田義行(200メートル平泳ぎ)が金メダルを獲得。<運動競技は最盛期を迎え><機運を察知した>と総合運動場の建設に乗り出した。

 球場から南へ1キロ、後の初代阪神パークに接する1万坪の敷地に「甲子園南運動場」をつくった。29年2月16日起工〜5月22日完工で工期3カ月。球場と同じく大林組による突貫工事だった。

 トラックは1周500メートルとして、内部フィールドに芝生のサッカー、ラグビー場を造った。スタンドは2万人収容。バックストレッチ側は旧枝川沿いの松林が風よけとなり、見栄えも良かった。スタンド内に貴賓室や宿泊所も設けた。

 開場式は5月25日、秩父宮ご夫妻をお迎えして開かれ、第2回日本学生陸上競技対校選手権大会を開催した。今に続く日本インカレで、全国から大学34校の選手が集まった。

 32年ロサンゼルス五輪で6位入賞、「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳が35年、100メートルで10秒3の世界タイ記録を出した。全国中等学校蹴球大会の舞台にもなった。後に分離して現在の全国高校ラグビーフットボール大会、全国高校サッカー選手権大会となった。

 甲子園海水浴場は球場完成の翌25年に開かれた。水泳の普及と世界的選手の養成を目的に甲子園水泳研究所をつくった。「水練学校」と呼ばれた。隣の香櫨園浜海水浴場の帝国水友会とともに五輪選手も輩出した。

 26年には甲子園―浜甲子園間に路面電車が通った。側面を網にした納涼電車、通称「アミ電」で客を運んだ。28年には25メートルの甲子園浜プールができた。

 32年、甲子園球場東(三塁側)アルプススタンド下に室内プールを造った。東京のYMCAに次ぐ2番目の室内プールだった。真冬でも水温20度の温水で、昼は一般市民に開放、夜は甲子園室内水泳倶楽部が練習した。

 37年には球場西隣に甲子園水上競技場(通称・甲子園大プール)ができた。50メートルの競泳用と25メートルの飛込用、水球もできる国際水準に応じたプールは神宮と甲子園だけだった。スタンドは1万人収容、夜間照明も備えた。

 戦後、48年9月、後に「フジヤマのトビウオ」と呼ばれる古橋広之進が400メートル、800メートル自由形で世界新記録を出した。

 大プールの隣にはテニスコートがあった。26年5月、30面のコートとクラブハウスで開設。37年にはスパニッシュ風の庭球会館、宿泊施設「庭球寮」を新設、センターコートを1万人収容に改造した。国際試合も開催された。コートは80面から後に102面に増設され「百面コート」と呼ばれた。日中戦争が泥沼化するなか、人びとは出勤前に「早起きテニス」を楽しんだ。

 テニスはモダンなスポーツで『鳴尾村誌』は<甲子園がたんなる娯楽場ではなく、新しいモダンな場所として衆目を集めるようになったのは(中略)「甲子園庭球場」の影響が大きい>と記した。

 同書は甲子園を「楽園」と記している。阪神電鉄が目指した<「住」と「遊」が近接した楽園>があったという意味である。

 プロ野球・タイガースも創設初年度の36年から庭球場に親しんだ。初代主将・松木謙治郎は『タイガースの生いたち』(恒文社)で<球場近くにあったテニス倶楽部ですき焼き会がよく催された>と、景浦将と若林忠志の大食い対決など思い出を記した。また「庭球寮」は56年に独身寮「若竹荘」に改装された。小山正明、藤本勝巳、三宅秀史……ら多くの選手が暮らした。

 =敬称略=