松井大輔インタビュー(中編)
「現役生活23年とセカンドキャリア」

◆松井大輔・前編>>「本1冊でも収まらない」プロ生活23年を振り返る

 自身が「氷河期」と振り返る3年(2010年夏から2013年夏)をなんとか耐えしのいだ松井大輔が、ディジョンを退団して次に移籍したのはポーランドのレヒア・グダニスク。そこでようやく復活の兆しを見せ始めていたその矢先、再びキャリアの分岐点が訪れた──。

 今年2月に引退を発表した松井が、引き続き"山あり谷あり"のキャリアを振り返る。

   ※   ※   ※   ※   ※


松井大輔に23年間のプロキャリアを振り返ってもらった photo by Koreeda Ukyo

── 京都からル・マンに移籍した2010年がキャリア最初の分岐点だとすれば、次の分岐点になるのは、ジュビロ磐田に加入した2013年12月でしょうか。当時はレヒア・グダニスクで調子を上げていましたし、ヨーロッパを離れることに迷いはありませんでしたか?

「レヒアで復活できた感覚だったので、僕自身はそのままポーランドでプレーするつもりでした。29歳から31歳くらいまではケガばかりしていましたけど、ようやくコンディションも取り戻せましたしね。

 ただ、そんなタイミングで当時ジュビロのゼネラルマネージャーだった加藤久さんがわざわざポーランドまで来てくれて、『ジュビロに来てくれないか?』って直々に誘っていただいたんです。だから僕としても、ジュビロをJ2からJ1に昇格させたい、その力になりたいと考えるようになって、シーズン途中でしたけど、迷わず日本に帰ることを決めました」

── 結果的に、その決断は正解でしたね。ジュビロでは初年度にキャプテンも経験しましたし、ケガもほとんどしなくなりました。

「ええ。日本に戻ってから本格的に自分の体を見つめ直して、2年目のシーズンを迎える前にはカズさん(三浦知良)にお願いして、正月のグアム自主トレに参加させてもらうようになったんです。

 僕の感覚としては、その自主トレに参加するようになってから、体のコンディションがすこぶるよくなった。カズさんから体のつくり方をイチから教えてもらって、まるでプロ入りしたばかりの京都時代のように、またカズさんの影響をモロに受けた感じです(笑)」

【ここは俺が活躍できる場所じゃない】

── ジュビロでは2年目に昇格を決めましたが、J1になってからは出場機会が減少気味だったので、もしかしたら引退が近いかもしれないと思って見ていました。

「僕ももう36歳でしたし、本当はあの時点で引退しようかなって考えていたんです。ジュビロはとても優しいクラブで、そのまま面倒を見てくれるとも言っていただいていましたし、だったらジュビロで引退するのがいいのかなって。

 そしたら、そんなタイミングでポーランド行きの話が舞い込んできたんです。海外にまた行けると思うと、もう僕としては絶対に行きたくなるじゃないですか(笑)。あの時は、そんな軽い気持ちで海外移籍を決めました。

 ところが、そんな気持ちで行ったら洗礼を浴びちゃいました(笑)。ポーランドのリーグはレヒア時代に経験していましたけど、オドラ・オポーレは2部リーグだったので、とにかくピッチ状態がひどすぎて、サッカーどころじゃなかった。フランスの2部リーグとも雲泥の差で、ホームスタジアムのピッチがもう終わっているんですよ(笑)。

 そんなグラウンドなので、相手チームはパスがつなげないから、オドラ・オポーレはホーム戦で圧倒的な強さを誇っていた(笑)。でも僕は、そんなぐちゃぐちゃなグラウンドでドリブルもできないし、テクニックも通用しない。そうなると、30代後半の僕が活躍できる可能性はゼロ。『ああ、ここは俺が活躍できる場所じゃない』って、すぐに悟りましたね」

── わずか半年で再び帰国することになり、今度は横浜FCでプレー。この時代で驚いたのは、ボランチにポジションを変えてニュータイプの松井大輔になったことでした。

「もともと、アジリティがなくなる晩年になったらボランチしかないって考えていたんです。現代サッカーだとサイドは走らないとできないし、かといってDFはできない。そうなると、一番スプリントをしなくてもいいのはどこかと考えたら、ボランチだなって。

 そこで、自分がボランチで生きていくためには何が必要かを考えたら、もうハードワークして相手を削るようなプレースタイルに変えるしかない。真ん中でプレーするテクニックはあると思っていたので、あとはハードワークができれば両方できる選手だという印象を与えるじゃないですか。あいつはボールも奪えるし、テクニックもある。そう思ってもらえれば、ボランチとしてやっていけるだろうと思って、プレースタイルを変えました」

【まったく外出ができない...散々な日々でした】

── サイドアタッカーからボランチに代わって、サッカーの考え方も変わったのでは?

「ええ、その頃からサッカーの見方も変わりましたね。それまでは自分のプレーのことだけを考えて、何より感覚を大事にプレーしていましたが、ボランチは人をどのように動かすか、そのために自分は何をすればいいのか、いろいろ考えてプレーしなければいけない。サッカーを理論的にわかっていないとボランチはできないので、それを身につけられたことは、今後の自分の人生を考えても、キャリアのなかでは大事な時期でしたね。

 しかも、俊さん(中村俊輔)も横浜FCに加入してくれたので、俊さんから理詰めのサッカーを教えてもらうこともできた。カズさんに体のことを教えてもらって、サッカーの理論を俊さんに教えてもらえるなんて、キャリアの晩年を迎えたオッサンにとっては最高の環境でしたね。本当にありがたい話です」

── さすがに横浜FCで引退かと思っていたら、次はまさかのベトナムでしたね。

「僕も横浜FCで辞めようと思っていたんです。まあ、ジュビロでもそうでしたけど(笑)。

 ただ、これまで何度も引退するタイミングはあったんですけど、その度に新しいオファーをいただける。で、その時はサイゴンFCからいい話があったので、僕としては『やったー! また海外に行ける!』っていう感じで、迷わず決めましたね。

 ただ、その時はまさかコロナの洗礼を受けることになるとは思ってもみませんでした(笑)。オドラ・オポーレ時代も下痢に悩まされたり、精神的にも病んでしまったり、本当に大変でしたけど、サイゴンではロックダウンを経験しましたからね。まったく外出ができないなか、非常階段を上り下りしたり......本当に散々な日々でした。

 しかも結局、リーグは再開されず、誰にも挨拶もできないままロックダウン下で帰国。いったい、この半年間は何だったんだって(笑)。でも、普通は経験できないことを経験できたので、自分としては話のネタが増えてよかったと思っていますけどね」

【面白いなって思えるサッカー人生だった】

── 普通の選手が経験できないという意味では、Y.S.C.C.横浜でフットサルとサッカーの二刀流も経験しました。2年目はコーチ兼任だったので、三刀流とも言えますが。

「このあたりから引退後を見据えて、いろいろなことをやらせてもらいました。特に最近は、フットサルを経験して本当によかったと思うことが多いんです。人と違う目線で見ることができるようになったし、フットサルの理論や技術をサッカーに生かすとか、人が気づかないことを考えられるようになりました。

 コーチ業にしても、少しでもJ3のコーチを経験させてもらったことで、仕事の流れを知ることもできましたし、学ぶものも多かった。そのすべてが、今後の自分にプラスになっていくんだと思っています」

── もはや引退するにあたって、後悔は微塵もないんじゃないですか?

「まったくないです! 僕としては、本当にやりきった感がありますね。周りから見たら、やりすぎなんじゃないかって言われちゃうくらい、やりきったと思います(笑)。それに、自分ではそんなにいい選手じゃなかったと思っているので、よくここまでやったなって思うところもありますし。

 でも、今になって思うのは、やっぱり自分はいつも人と違う道を歩んできたという感覚があるので、面白いなって思えるサッカー人生だったなって。そう思っています」

   ※   ※   ※   ※   ※

 松井の歩んできたプロキャリアは、サッカー以外にもいろいろな要素がギッシリ詰まった23年間だった。あらためてその歩みを振り返れば、「山あり谷あり」というよりも「谷ときどき山」といったほうが近いのかもしれない。

 しかし、だからこそ数々の谷を経験した者にしか登りきれない険しい山に登った時、松井大輔という選手は見る人を感激させるほどの輝きを放つことができるのだろう。

 果たして、そんな松井が引退後に目指すものは何か──。話は、自身が思い描くセカンドキャリアに移っていった。

(後編につづく)

◆松井大輔・後編>>「ドリブルは理論も合わせて伝えるのが育成世代には大事」


【profile】
松井大輔(まつい・だいすけ)
1981年5月11日生まれ、京都府京都市出身。2000年に鹿児島実業高から京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)に加入。その後、ル・マン→サンテティエンヌ→グルノーブル→トム・トムスク→グルノーブル→ディジョン→スラヴィア・ソフィア→レヒア・グダニスク→ジュビロ磐田→オドラ・オポーレ→横浜FC→サイゴンFC→Y.S.C.C.横浜でプレーし、2024年2月に現役引退を発表。日本代表31試合1得点。2004年アテネ五輪、2010年南アフリカW杯出場。ポジション=MF。身長175cm、体重66kg。

著者:中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi