【桟原将司 ハナの剛腕道中(4)】小学校時代に世界一を経験して名門のボーイズ、シニアリーグに入団と思いきや、僕は普通に地元の公立中学校に進学しました。ただ、学校に野球部がなかったため、地元の大正ボーイズに入団することになります。

 大阪の名門ボーイズからのスカウトもあるにはあったのですが、大人の事情もいろいろとありました。そのあたりは割愛します(笑い)。よくプロ野球選手は子供の頃から硬球を握っていたと言いますが、僕は中学から硬式野球に触れることになりました。

 一般的な中学校の野球部は毎日、練習がありますが大正ボーイズは火、木、土、日、祝日が練習日に設定されていました。各都道府県によって状況は違うかとは思いますが、中学校では陸上部に入りながらボーイズでプレーという選手もいるみたいで、僕は月、水、金は普通の中学生と同様に遊んでいました。

 僕が入団した頃の大正ボーイズは強くはありませんでした。自分の記憶が正しいのかは分かりませんが、当時は13大会ありましたが、先輩たちは年間で5、6勝しかしてなかったはず。1学年上のチームの試合には僕も出場していましたが、勝率は5割を下回るようなチームでした。

 ということもありまして、僕はどのボーイズにプロ注目選手がいるのかとかも知りませんし、対戦すらしたことがない状態です。自分たちの学年が最上級生になり年間18勝ほどできるようになりましたが、いまだに同級生から「なんでそんな細かいこと覚えてんねん」と言われるくらいです。

 大阪には強いボーイズのチームもたくさん存在していました。大淀ボーイズや、桑田真澄さんを輩出した八尾フレンド、ダルビッシュ有を輩出した羽曳野ボーイズ、僕の1学年後輩の西武・中村剛也が所属していた大東畷など強豪がひしめき合っていました。

 ただ、僕らはそれらのチームと対戦すらしたことない状態で…。それでも、中学3年時の監督が大阪府の強豪校に何人も選手を送り込んだような人で、最後のシーズンはすごく楽しんで野球をやれた印象が残っています。その監督は元木大介さんらがOBの名門校である大阪・上宮高にもコネクションがあったようで、胸の漢字の「上宮」に憧れていた僕は、セレクションを受けたいなどと希望を伝えたものでした。

 ただ、ここでも大人のパワーが働きます。僕の進路は少年時代からお世話になっている、地域のボーイズリーグの会長に委ねられているとのこと。選択肢は元オリックスの藤井康雄さんらを輩出した泉州高と母校の大阪桐蔭高の2択。僕は小学3年生の頃に夏の甲子園で阪神の先輩にも当たる萩原誠さんらが全国優勝した印象も強く、即決で大阪桐蔭高への進学を希望しました。

 もう迷うこともなかったですね。大阪では常にベスト8に入るような強豪校という知識もなかったですが、投手として迎え入れてくれるということもあり、すぐに決めたことを覚えています。