自分は対極にいるからか、感覚派のデメリットを感じることもある。これは誰かを指しての印象ではなく、あくまで全体像だが、感覚で乗っているぶん、自分がうまく乗れたときの理論づけをする必要性がないから、逆にうまくいかなくなったときのリカバリーに苦労するのではないかと想像する。

なぜうまく乗れたのか、なぜうまく乗れなかったのか。自分はそのすべてに理論づけをしていたから、たとえうまくいかないことが続いても、すぐに修正していくことができた。感覚で乗っていると、おそらく修正が利きづらい。そこは数少ないデメリットであるような気がしている。

自分にはセンスがなくてよかった

将雅について、「競馬学校生の頃からセンスの良さが目についた」と書いたように、同業者であれば、ひと目見ただけで〝鞍はまり〟の良し悪しはわかる。自分が先輩たちから笑われたのもそこだ。

将雅はともかく、最初からセンスを感じさせる子というのは、新人時代から「うまいね」と声をかけられ、得てしてちやほやされがち。だからなのか、そこで成長が止まってしまう子も多い気がする。

実際、最初は「もうひとつかな」と思った子が徐々に変わってきて、ちやほやされていた「最初からうまい子」を超えていくケースを何度も見てきた。徐々に変わってきたということは、自分の足りないものに気づいて修正したということ。もし、ちやほやされていた子に慢心があれば、あっという間に逆転されて当然なのだ。

なぜなら新人時代に「うまいね」と言われる子は、あくまでセンスがあるだけであって、レースで即通用する技術があるわけではない。ちやほやする周りの大人たちの責任もあるが、それを理解せずに研鑽を怠った結果、思ったよりも伸びず、いつの間にか埋もれてしまう。悲しいかな、そういう子が多い気がするのも事実だ。

もちろん、優れた感覚やセンスは重要な要素で、それが岩田くんくらい突出したものであれば、感性だけでトップに上り詰めることもできるだろう。でも、それは本当に選ばれし人だけ。最初から目を引いた将雅だって、もし最初からちやほやされていたら、どうなっていたかわからない。

自分がデビューした頃は、「天才の息子」という別の意味でちやほやされたが、「最初からうまい子」ではなかったし、自分でもそれがわかっていたから、勘違いすることも慢心することもなかった。

自分がここまで来られたことを考えると、大切なのは、もう一つの目を持って、自分を俯瞰できるかどうか。そのうえで、自分は何に優れていて、何に劣っているかという自己分析をきちんとできるかどうかだと思う。

それができれば、あとは自分に合った手段を探し続けること、それを察知するアンテナの感度を保っておくこと。そして、そうした歩みを止めないこと。

自信がある人は、壁にぶち当たったときにその原因を周りに求めてしまいがちだが、嫌というほど自己分析をしていた自分は、大きな壁にぶち当たったとき、「ゼロになろう」と決めた。そうした決断を経て今にたどり着いた自分としては、「センスがなくてよかった」とすら思う。

もちろん、最初からあり余るセンスと才能があったら、岩田くんに嫉妬することも、挫折感を味わうこともなかったのかもしれない。しかし今、ジョッキーとして歩んだ27年間を振り返ったとき、そこには確かに誇れるものがある。もしセンスと才能があったら、手に入れられなかったものがたくさんあったからだ。

著者:福永 祐一