収拾がつかなくなった尾崎は、事務局長と保険局次長を兼務する小山進次郎のもとを訪ねた。

「弱っているんですよ。このことにケリつけないと、これから事務局が回っていかない」

小山は、

「そりゃ尾崎君。キミの考えは正しいのだから、それでいこう」

と後押しをした。

その後、小山は激務の合間を縫って事務局に顔を出さざるをえなくなった。尾崎と若手官僚たちのバトルは、むしろ活気があっていいと感じていた。

小山は事務局の総意を一気に取りまとめた。拠出制を基本とする一方、「皆年金」に配慮して、すでに高齢の人や、保険料納付が困難な人に保険料免除を設け、「経過的・補完的」に無拠出制を組み合わせる──。そんな方針に固まった。

初の年金が争点の選挙

その頃、衆院解散が取り沙汰されていた。「55年体制」の新たな政治状況が生まれ、信を問うたほうがいいといった程度の理由で「話し合い解散」と呼ばれた。事務局発足から2週間ほどたった1958年4月25日、衆議院が解散。岸信介総理は、日比谷公会堂で行われた遊説第一声の演説でこう述べる。

「国民年金制度は今日の公約で最も注目すべきであり、これを(昭和)34年(1959年)度から逐次実施することにより社会保障の画期的な前進を期したい。これにより生活力に恵まれない老齢者、母子世帯、身体障害者の生活が保障されることとなり、福祉国家の完成へ大きく前進することになると信ずる」

こうして日本政治史で初めて、年金が争点の選挙が行われた。

5月22日の投票結果で自民党287、社会党166、共産党1(定数467)と自民が完勝。その原因が、自民党が国民年金の具体的な数値を示したためと評され、岸は前のめりとなった。

事務局には新たな、そして最も重要な仕事が舞い込んできた。7月23日、福田赳夫政調会長の下に発足した、自民党国民年金実施対策特別委員会の事務方としての作業だ。委員会を率いるのは、大蔵次官に上り詰めた後に政界入りし、吉田茂内閣で建設大臣などを務めた大物・野田卯一。2021年の自民党総裁選に出馬した野田聖子の祖父である。

小山にとって悩ましいのは、国民年金創設に向けて「4頭立て」で進んでいたことだった。厚生省、特別委員会、厚生省内に設置された国民年金委員、総理の諮問機関・社会保障制度審議会(制度審)である。